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2017年12月1日金曜日

恐怖の人工衛星


     シバジョーのつぶやき

今日私にとってかなり重大な決断をした日だったのですが、自分が望む物が手に入らなかったり、自分の要望が通らなかったとしても、その駄目だった現状に立ち尽くしていては良くない。要望通りに進まなかった現状を認め、その上でどう楽しんでいくかが大切なことだと感じています。思い通りに行かない事の方が遥かに多いのに、その度に足を止めてもがき苦しむことは、生きていく上で心地よくない事だと思います。そして私は過去の経験からも、どんな状況であれ楽しみに変えていくことが必要だと思い、それを実践しているのです。

 今日の決断は自分が納得した上で出した結論だが、正直悔しさは残っている。だけどその悔しさをいつまでも引きずっていては短い人生の時間がもったいないので、気持ちを入れ替え今を楽しんで行こうと思っています。
 
 

 昨夜の記事で中学生の読解力についての記事を書いていまして、学生時代の苦行を思い出したので今日はその話を。

 このブログでも何度か私は走ることが好きだったと書きましたが、一時期は本当に走ることが嫌になったこともありました。私が通っていた田舎の中学校は部活動が強くて有名なんてこともない学校でしたが、部活の厳しさはかなりのものだったと思います。その学校の教育者の間には「試合で勝ちたいなら気合と根性だ!」という時代錯誤の考えが横行しており、競技の技術を向上させるための練習や、試合に勝つための合理的な練習などほとんどした覚えがありません。「1に根性、2に根性、3、4がなくて、5に気合だーーー」のような精神論を押し付けられるような練習ばかり。
 


そしてそのような部活環境の中で私が最も恐れていたのが、部活顧問の「よーし、人工衛星だ」という掛け声です。

私は学生の頃、この『人工衛星』という言葉は全中学高校で通じるものだと思っていたのですが、田舎を一歩出ると『人工衛星』は恐怖の単語ではなく、主に地球の軌道上に存在し具体的な目的を持つ人工天体としてしか知られていないことに驚きました。私達だけがあんな馬鹿なことをさせられていたのかと・・・
 
 

 
私の通っていた学校の部活動の慣習でもあった『人工衛星』とは、顧問の教師が許可を出すまで2時間でも3時間でも一定の速度以上で永遠とグラウンドを走り続けなければいけないもので、生徒が何らかの不手際をした場合は勿論、時には教師の気分次第で「人・工・衛・星~」と怒鳴り声にも似た掛け声が発せられ、私たち生徒は異論を唱えることなど出来ずに長い時なら日が暮れるまで、グラウンドを走り続けるのです。こんなことしていたって上手くなるわけありませんよね。長距離走の選手ならまだしも、球技の選手をそんなに走らせて何になるんだと。しかもこの「人工衛星」は私が所属していた部活では3日に1度は発動していたので、私たちはまともな練習もせずに、地球を回る人工衛星のように、ただ毎日グラウンドをぐ~るぐる。これがほとんどの運動部で行われていたのです。

 
 
 

 そしてしまいには、その部活の球技が上手い選手ではなくて、『人工衛星』やり続けることの出来る、教師のお気に入りの生徒がユニフォームを着ることになるのですからおかしな話です。技術よりも根性で試合に出られるかどうかが決まるのですから。

 
 ですので私はこの『人工衛星』の恐怖におびえていた数年間だけは本当に走ることが嫌いでした。軍隊じゃないんだから、といつも思ってました。シューズを何足履きつぶしたことか・・・ 頭悪すぎますね、合理性のかけらもない。

 
未だに夢にも見ますからね。「人・工・衛・星~」と鬼顧問が叫んでいる夢を。

ですから私の前では絶対に人工衛星という言葉は口にしないで下さい。泣きそうな表情で走り始めます。
 


最後までお読みいただきありがとうございました。
 

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2017年11月22日水曜日

笑い風

 仕事の合間、気分転換のために遊びで短い読み物をつづる時が、私には良くあります。
これは数時間の遊びの中で、力を抜き書き上げたものの一つなのですが、何人かの知り合いに見せた際に思わぬ高評価を頂けましたので、アップしてみたいと思います。あくまでも仕事の外の物ですので、詳細な手直しも見返しをした作品ではございませんため、誤字脱字等お見苦しい点が多々あるかもしれません。ですが皆さまが時間のある時にでも、さらっと目を通していただける読み物になれば幸いです。これは私の大好きな芸人さん二人を使わせていただいたお話です。
お前なんかの作品読んでられねぇよって方は、最後の方に目を通してください。つまり言いたいことはそういうことです。
 これは実在の人物を私が勝手に動かした創作作品ですが、不快感を感じられる方がいたら大変申し訳なく思います。


             ・笑い風            (北野武&明石家さんま)

風を求め、湿り気の強い廊下を手提げ袋を片手に一人歩く。草一本生えることのない冷たい道。
新調した革靴の新しさを誇示するかのような軋みが耳障りだが、その不快な音を生む足の動きは思いのほか軽やかだった。
 歩く自分の横を蒼白な顔をした若手のテレビ局員が走り抜けていく。その際に「お疲れ様です」と、しっかり挨拶をし、一日中走り回った疲労の香りを一欠片残して。
 目的としていた部屋の前で立ち止まると、扉の中から甲高い笑い声が聞こえてきた。誰か客でも来ているのだろうか、声が止む様子はない。だがここまで来て引き返すことは、しゃくに障る。意気揚々と話す声に割り込むように武は二度扉を叩く。コン、コン、と遠慮がちな音が鳴り、それに応じ扉の中からは鬱陶しそうな声が返ってくる。
「はい?」
短く大きな声には、面倒臭さのモヤがかけられているように感じた。
「俺だけど」
武の声を聞き、部屋の主の声が様変わりする。
「え、ちょっと待って下さいよ」
重く見えた扉はことのほか軽快に開き、慌てた様子の主が顔を覗かせる。手には古い型の携帯電話が握られていた。
「武さんじゃないですか、珍しいですね、どうしたんですか?」
さんまは先ほどの短い返事が嘘のように高揚とした声を出した。一種の公害のような大きな声だったが、彼の様子から察するに自分が急に楽屋を訪れたことは迷惑ではないらしく、まとわりついていた不安は姿を消し、武は肩の力を抜く。
「いや、今日お前も来てるって聞いてさ」
「そうなんですよー、収録日変わっちゃってね。そっちは今ニュース終わりですか? あ、それよりこんなところで立ち話もなんですから、入ってください」
何故かさんまはニュースと言いながら眼鏡を指で上げる仕草をした。ニュース番組はインテリジェンスなもので、インテリな人間は眼鏡をかけているだろうという彼の主観の表れだろうか。だが武はそこに触れない。
「入っていいの?」
「何言ってんですか、当たり前でしょ。入ってくださいよ」
いつも通り陽気な空気をまとう男に、武は意地の悪さを覗かせる。
「いや、でも今日はいいや。なんか忙しいみたいだし、声も怖かったし今度にするよ。また出直します、お邪魔してすみませんでした」
頭を下げる武に、さんまはわざとらしく慌てる様子を見せる。声と同様にリアクションもまた大きい。
「そんなことないですってー。久し振りなのに何でそう言いうこと言うんですか。ほら、入って、入って」
さんまは顔に笑みを浮かべ、武の背中を強く押す。
 
 さんまの楽屋は、武が局に用意された楽屋と同じで無駄に広く、寂しさが広がっていた。白い大きなテーブルの上に忘れられたようにポツリと置かれた食べかけの弁当が、その寂しさをより際立たせていた。寂しさを強調する弁当から目を背けたかったが、避けることに息苦しさを感じ武は弁当を指さす。
「この弁当、俺の番組でも毎回用意されてるんだよ。これ不味いだろ」
武のつぶやくような言葉に、さんまは大きく目を広げる。職業病なのだろうが、やはりリアクションが大きい。
「何言うてはるんですか。僕食べてビックリしましたよ、こんな美味い仕出し弁当あるんだって。これを不味いなんて、あんた普段からいい物食べ過ぎなんですよ。トリュフやら松茸やらポルチーニやら」
「それ全部キノコじゃねーか。そんな馬鹿みたいにキノコばっかり食べてたら、体にキノコ菌寄生して風呂上りにキノコ生えてくるよ。そんなことになったら、街歩いてたらオネェちゃん達寄って来ちゃうじゃないか。『あらあそこに美味しそうなキノコ生えてるわ、食べてもいいかしら』って」
楽屋の中に風が吹く。ケタケタケタケタケタ 白い歯を前面に出し、手を叩きながらさんまは笑った。ケタケタケタケタケタ ケタケタケタケタケタ 壊れたような笑い方。誰かに操られているのではないかと、彼を吊るす糸を探したがどこにも見つからない。喉を鳴らし、何とも気持ち良さそうに笑う彼を止めることは悪い気がしたため、武はそのまま話を続ける。
「7Daysじゃ毎度この弁当出してくるから、いくら美味くても飽きちゃうんだよ。だから俺なんて今この弁当食わないで、インスタントのカップ焼きそば食べてるからね。けっこう美味いんだ、これが」
首に筋を立て笑っていたさんまが、意外と作りの良い顔を元の位置に戻す。その顔には笑いはそのまま残っているが、笑みの種が変わったように思えた。笑顔の奥に楽しさが透けて見える。久し振りに会う武との二人だけの空間にようやく落ち着き、楽しむだけの余裕を得たようだ。
「えぇっ、でも武さんカップ焼きそば食べるにしたって、楽屋では湯は沸かせても湯切り出来ないでしょう。床にお湯捨てるわけにもいかないし。どやって食べてはるんですか?まさかお湯入れたまま食べてるわけじゃないんでしょ。そんなん焼きそばじゃないですよ」
「そんなことわかってるよ。マネージャーに給湯室で湯切りだけしてきてもらうんだ。で、そこからは俺が作るの。作るったってソース入れて青のり振りかけてカラシマヨネーズ適量入れるくらいのもんだけどな。それぐらい自分でやらなくちゃ駄目人間になっちゃうからさ」
さんまは感心したように喉の奥から声を出す
「ほぇ~、真面目というか何というか。全部人任せにはしないんですね」
「うん、まぁね。でもさ、俺のマネージャーけっこうな歳なんだよ。俺より二つか三つ若いくらいの年齢。そんなんだからさ失敗も多いんだ。カップ焼きそばなんてさ、お湯入れて3分待ってお湯捨てるだけだろ。それが出来ないの、今のマネージャー」
思惑通り興味深げにさんまは聞く。安い撒き餌で真鯛をひっかけた感覚だ。
「それの何が出来ないんですか」
「ん、聞く?」
「そりゃ聞きたいですよ。そこまで言うたんなら最後まで責任持ってちゃんと話さんと」
さんまは武のマネージャーの話に興味を持っているようだった。早く早くとじゃれつく犬のように、話の続きを促すさんま。彼の待ちわびる表情だけで武は酒が飲めそうだった。自分の中で紡ぎ合わせた言葉で人を酔わせその先を望ませる。その状態を作り出すことに武は卓越した技術を持っていたが、自分の話に相手が飛びつかんとするほど焦がれる様には、今でさえ喜びを感じてしまう。そして、その相手もまた洗練された手腕を持ち、自分と同じ高さに座することのできるほどの人間なら喜びは一層の高まりを見せる。武はゆっくりと話始めた。
「まずね、あいつ老眼だから、焼きそばの作り方の説明文をよく読めないの。あれってけっこう字ちっこいだろ。でさ、二カ月くらい前かな。初めてカップ焼きそば作ってきてくれって頼んだんだよ。給湯室でやってきてくれって。で、俺は台本に目を通して待ってたわけ」
「はい、はい」と、相槌を打ちながらも、さんまの眼球は今にもこぼれ落ちそうになっている。
 この男は笑い話が大好物なのだ。溺れた状態で浮き輪と笑い話が流れてきたら、この男なら迷わず笑い話に飛びつくのではないだろうか。生きることは笑う事、死してなお笑いを。笑いの権化だ。
「で、ちょっと戻ってくるの遅いから、給湯室混んでるのかな~くらいに思ってたわけ。そしたらそいつ戻ってきて、自慢げに言うんだよ。『武さん、焼そば作って参りました』って、こんな顔してさ」
武は大げさに顔をひん曲げて見せる。それと同時に、さんまは顔を上げ手を鳴らす。
「いや、その人にしたら頑張ったのかもしれませんやん。大変な作業だったんでしょう、きっと」
「違うの、そこじゃないんだよ。よし、食べるかと思ってフタ開けたらさ、もうね、麺がぶよんぶよんに伸びちゃってて、ケースから溢れ出そうになってるの。だから俺『なんだよ、これ』って言ったの。そしたらそいつは『え、ちゃんとやりましたよ』って顔してくるわけ。俺も楽しみにしてたから、腹立って聞いてみたんだよ。『おまえこれ、どうやって作ったんだって』、そしたら湯切りまで7分も待ってたっていうんだよ」
「7分?どういうミスですかそれ。普通ああいうもんって待つ時間3分くらいのもんでしょ」
「だろ?7分も湯につけとくって、嫌がらせにしか思えないだろ。人が食うのを楽しみにしてるものを、そんなにするなんてな。あれじゃ老人食だよ。こしも何もあったものじゃない。それで問い詰めたらさ、3分たったら湯切りってのを7分と読み間違ったっていうんだけど、いくら老眼だからって3と7を読み間違えるか? 形が全然違うだろう。3を5と間違ったってんなら俺はまだ我慢できるよ。なんとなく形も似てるし、5分くらいならまだ食えるから。それが7分だよ、酷すぎるだろ」
さんまは相づちを打つのも忘れ、ケタケタと笑っている。目の前の男の笑う姿に武の口は更に潤滑になっていく。自分の話で笑ってくれる人間がいることは、どんな賞を受けることよりも喜びは大きい。
「それだけじゃないんだよ。どこ探しても焼そばに入れるソースが無いの。青のりとマヨネーズはあるのに、ソースだけないんだよ。それ言ったらさ、あいつ『ソース置いてきちゃったかもしれません、取ってきます』って血相変えて走っていくんだよ」
楽屋で気を緩めていたさんまの笑いは止まらない。喉をひぃひぃ鳴らし笑っている。武はさんまの喉が擦り切れて穴が開かないか心配になる。そしてそれと同時に快感を元にした笑いが武の顔を覆っていく。
「でさ、かなり焦ってたんだろうな。そいつ顔真っ赤にして戻って来たんだよ。で『すいません、もうありませんでした。清掃係のババアに捨てられたようです』って涙声で俺に報告するわけ。「ふざけんじゃないよって。掃除のおばちゃんのせいにしてさ、麺はぶよんぶよんだわ、ソースはないわで、青のりとマヨネーズはしっかりあるの。なんか奥歯にものが挟まったみたいだろ。ソースが無いなら青のりもマヨネーズもない方がいいよって。不格好すぎるだろ。もうね、あいつの行動の全てが悪質なの。俺の映画でそんなことしてたら、あいつの指一晩で全部なくなっちゃうよ」
ケータケタケタケタケタ、ケタケタケタケタケタ、とさんまは一層長く大きく笑った。まるで壊れたばね人形のよう。ケタケタケタケタケタ、ケタケタケタケタケタ 彼の笑いは永遠の螺旋を描くように止まることを知らない。青い空の下、突然吹いた強風のような笑い。
 一切の迷いのないその笑いが、秋の夜の寂しさを少し和らげた。
 彼の笑いが収まるのを待ち、武はテーブルに手提げ袋を置いた。飢えた獣のような反射神経でさんまは聞く。
「気になってたんですよ。何なんです、それ」
「うん、貰い物のワイン」
「えー、これ、いただけるんですか。武さんがもらってるくらいだから、もしかして有名どころのワインですか?」
武は小さく鼻で笑い、産地とヴィンテージを告げる。
「ボルドーの95年物」
「そんなん言われても僕にはわかりませんよ。ワインの名前は?」
手提げ袋からボトルを取り出し、さんまに手渡す。
「シャトー・ラフィット・ロートシルト」
「うわっ、いいとこのじゃないですか。これ高いんでしょ。いいんですか?もらっちゃっても」
「多分20万くらいじゃないかな。なかなかの当たり年らしいから美味しいと思うよ」
「でもどうして突然僕に?」
照れを隠すように武は頭をかく。
「俺最近ワイン飲み過ぎててさ。ちょっとワインから距離置こうと思ったんだ。女でも時間空けてから会うと良く見えることってあるだろ、同じ女なのにさ。だからワインとも一度離れてみようと思って。けどさ、距離置いたってもう一度ワインと付き合うかはわからないだろ? 二度と飲まないかもしれない。でさ、ワインって生きものじゃない。飲み方によってさまざまな表情見せてくれて、でも本当の姿はなかなか見せてくれない気難しい奴。そんなワインがさ、飲んでくれるかどうかもわからない奴の所に居てもつまらないと思うんだ。それで少しでもワインが好きな奴のとこに置いておいてやろうと思ってね」
さんまは半笑いの表情で口を開く。
「あ、僕にくれるんじゃなくて、僕が保存しとけってことなんですね。でも仕事終わって家帰って酒なかったら、これに手つけちゃうかもしれませんよ。責任持てませんからね」
「いいよ、飲みたいなら飲んじゃえって。下手に家に転がしといたら、上機嫌な奴がそっぽむいちゃうよ。すねた女と飲んだってつまらないだろ。だから保存の仕方もよくわからないなら、美味いうちにさっさと飲んじまうほうがいいんだ」
「劣化ってやつですね。ワイン好きの人、良くいいますもんね。上等なワインをプショネにするんは最低だって。ほなら僕、預かってるもんとは思わずに、ほんま飲みたくなったらすぐ開けちゃいますから。ワイン腐らせないように。いや、もう腐ってるか。駄目にしないように」
受け取ったワインボトルを大事そうに抱えるさんまに武は笑いかける。
「でもさ、飲んだなら金払えよ。それは俺がお前に貸し付けてるワインなんだから」
おちょくりを始める武。悪い癖だとはわかっているが、この悪癖が抜けることは無い。おそらく心身に沁み込んでしまったものなのだろう。そしてそれをよく理解しているさんまの口調は軽い。
「いや、さっきくれるようなこと言ったじゃないですか。飲みたくなったら飲めって。だからこれはもう僕のものですよ」
「いや、なんか手離したらやっぱりそいつが可愛く思えてきてさ。おまえのところにやるの、いたましくなっちゃった」
「ダメですよ、そういうとこ治さないと。あんたの悪いとこですよ」
「わかった、わかったよ」
そう言いながらもワインボトルに手を伸ばす武。
「何ですか」
ボトルを隠すように身をよじるさんまに、笑いながら武は言う。
「取らないって。ほんっとに疑り深いなお前は。ちょっと貸してくれよ、それ」
「もう~、今度はなに」
すねるようにボトルを渡すさんまに幼さを感じ、不本意ながら小さな愛しさが沸く。
「おい、お前が抱くように持ってたから、ボトル温まっちゃってるよ。これでワイン壊れてたらどうするんだ、もったいない」
さんまはすぐに言葉を返す。
「あんたが取ろうとするからでしょ」
怒りながらも笑うさんま。二つの感情を同時に顔に表している。見事なものだ。怒りながらも高らかに笑う狂人。そんな役者が人を殺めるシーンを脳内のスクリーンに映し出し、一人鑑賞にふける。高級スーツの下に笑顔のミッキーマウスのTシャツ、手には牛刀。けたたましく雨が降る夜の繁華街の片隅に、そんな狂人と悪しき被害者。意外と映えるかもしれない。しかし、唐突に始まった映画鑑賞は終わりも唐突に訪れる。
「ちょっと、武さん。何一人で固まってるんですか? 用ないならワイン返してくださいよ」
狂人の鋭い声にスクリーンは暗転し、余韻に浸る間もなく、突風がごとく笑う男の楽屋に戻される。
 視線が結ばれたため、さして言葉の選択はせずに目の前に座る男に言葉を発する。
「ワインっていいよな。おいら達は月日がたつごとにガタが来るけど、ワインってのは保存法さえ間違えなけりゃどんどん洗練されていくんだぜ。人間が作った飲み物なのに人様より賢く生きてやがる」
意図して出した言葉ではなかった。そのため深い意味も持たない。ただベクトルこそ違えど、自分と同じく誰もたどり着くことのできない孤高の座に位置するこの男なら、何か受け取ってくれるかもしれないと薄い期待はあった。
 その考えは正しかったのか、目の前に座る男は目を細め皮肉に笑う。狂人の笑みだ。
「あんた、何か悩んでるでしょ。なんか今日は顔が暗いな~思てたら、ワインなんか羨ましがって。ホント困った人やな~」
「だってさ、年取ると年取っていくと体だけじゃなく、脳まで退化していくんだぜ。おいら達だっていつかは表舞台から降ろされちゃうよ。ずっと明るい照明の下にいる気はないけどさ、ここまで身につけてきた技術が身から離れていくってのは悲しいだろ。こういうものは一度失われると二度と戻っては来ない。気づいたらボケ老人になっちゃってるよ」
さんまは座ったまま背を伸ばし顔を上げる。表情は見えず、顔色をうかがえないことに薄い不安を武は覚えた。
「なにアホなこと言ってはるんですか」
椅子に深く座り直す武の前に、さんまの顔が戻ってきた。その目には強い光が見て取れる。
「あんたね、いい年してそんなことで悩んでたら駄目。僕らはもう十分老いてるんだから、これ以上老いることに何の恐怖もないでしょう。この年齢で誰も登ってこれない切り立った山のてっぺんにいるんですよ。もう十分でしょう」
さんまは真っすぐに目を見つめてくる。今この男には言葉は必要はないだろうと、武は口角を上げ笑みで言葉を返す。
「そうですよ。笑いなさい。笑ってればいいの。僕らどんな時だってそうしてきたでしょ。例えどんなに辛い人生でもね、笑顔でいれば人生は楽しくなってくるの。笑ってる人の所には、どんなに小さくても必ず幸福は降ってきますよ。だから笑ってなさい。暗い顔してちゃ駄目」
更に笑みを深くし、武はうなずきかける。空っぽだった楽屋の空気は熱を持ち始めていた。
「表舞台から降ろされたからって何だって言うんですか。あんたや僕を引きずり降ろしたい奴がいたとして、それが望み通りいったとしてもね、そいつは絶対後悔しますよ。僕らの色は僕らにしか出せないんですから。しょーーーもないお気に入りの顔を僕らの後に置いたからって、そいつが武さんや僕になれるわけでもない。ほなら僕らはどっか酔いどれが転がる路上で漫才でもしてましょうや。光る奴は表舞台に立たんくても光るんです。ゴミだめの中にいたって輝けるんです。よし、路上でツービート漫才やりましょう。受けますよー」
笑いながら大きく体を震わせ、武は吠えるように言葉を発する。
「俺はまだいいけどさ、お前は絶対ツービートって柄じゃないよ。口が回るし8か16でもいけるだろ」
ケタケタケタケタケタ さんまは笑う。
「いや、やろうと思えばできると思いますよ。でもそんなビート上げて、武さん付いて来れますか?無理でしょー」
「馬鹿野郎。俺が何年お笑いやってきてると思ってんだよ。なんなら32ビートでもいけるよ。高速漫才。客が何言ってるか全然聞き取れないのな。『えっ、何、あの人達何言ってるの?』ってな」
心地よい高らかな笑い声を上げながらも、素早く合いの手は返ってくる。どこにボールを投げても、必ず投げ返してくれるありがたさ。
「客を相手にせず、自分たちだけが笑える漫才ね。いいじゃないですか、ホントそれやってみたくなりましたよ。練習しよかな」
顔を高揚させ武は手を振り、言葉を飛ばしながら笑う。
「でもね、実際に漫才やってるおいら達も、実は何言ってるかわからないのな。ただ、わぁーーー、うわぁーーーって叫んでるだけなの。それがおかしくて二人で肩たたき合いながら笑ってさ。客ポカーンだよ、このボケ老人たちはいったい何やってんだろうって」
ケタケタケタケタケタ ケタケタケタケタケタ ケタケタケタケタケタ
今日一番の突風が楽屋に吹き、二人の笑い声が重なった。
 笑いを引きずりながら武が部屋を出ると、先ほどの若い局員が、一層顔を青くして廊下を歩いてくる。上着を羽織っているので、ようやく帰路につけるところらしい。まだ20代前半であろう局員は、武の姿を目に停めると、すかさず姿勢を正し「お疲れ様です」と廊下に枯れた声を響かせる。そしてまた歩き出す疲れた背中に、多くの言葉が浮かんだ。その中の一つを口に出す。
「おい、逃げ出したいほど辛いだろうけど、今が頑張りどころだぞ。辛い時こそ笑っちまえ」
振り向いた彼の顔に、淡い花が咲き風が吹いた。

作 芝本丈

2017年11月11日土曜日

電話が苦手な私


  シバジョーのつぶやき
TwitterのURLをプロフィールに乗せることでアクセス数に変化はあるのだろうか。
逆にTwitterでブログをしていることを拡散するとアクセス数は増えるのだろうか。
と、最近考えている。

今日は電話の話です。
電話が苦手な私はメールやLINEを多用します。
自分から電話を掛ける分にはまだいいんです。
しかし誰かからかかってきた電話がもう苦手で苦手で、逃げ出したくなる思いになります。
特に仕事関係の嫌いな人からの着信なら、心臓が口から飛び出しそうになります。
電話をかけてくるたびに、君の仕事はどうだのああだのとパワハラにも似た文句を言われるため、着信音量をゼロにして何度かかってきてもスル―することもあります。
電話に出なかった理由付けなどいくらでもできますからね。トイレに行っていたでも言ってしまえばいいんです。証拠なんてありませんからね。完全犯罪ですよ。

けどかかってきた電話をスル―し続けることは、こっちの精神的負担もかなり大きいんです。
スルーする度に、泥を詰めてパンパンになった袋が背中に積み重なっていくような思いで・・・
だって大事な電話かもしれませんから、いつかは出なくちゃいけないですし、スル―し続けた相手にこちらからかけ直すこともかなり辛い。

けど気が狂ったかのように5回も6回もかけてくるので仕方なく出るわけですよ。もちろん着信があったことなどまるで知らないような明るい声で。
私「はい、シバジョーです」
すると電話からはふて腐れた仕事関係の嫌な奴の声
怨敵「あのさぁ、何回も電話かけてんだけど」
私「あっ、電話くれてたんですか。トイレ行ってたので着信聞こえませんでした」
怨敵「お前は1時間に5回もトイレに行くわけ?それも俺が電話するタイミングで」
ここらへんで私の心労はすでにゲージを振り切ろうとしています。
私「あっ、あの、その。ちょっと大きい方だったので時間が掛かってしまって」
怨敵「何?いつも1時間も便所にこもるの」
私「はぁ、調子悪かったですし、雑誌持ち込んでいろいろ情報収集を」
怨敵の声は嫌味を全面に押し出した、壊れた赤ワインのような声。腐敗集が匂ってきそうな感じです。
怨敵「こんな切羽詰まってる時によく1時間も雑誌なんか読んでられるねぇ」
私「あの、ですから、情報収集です。でも、その、すみませんでした」
怨敵「あ~あ、もういいよ。さっさと仕事続けて」
私「あの、御用件は」
怨敵「仕事の進展聞こうとしただけ。時間もったいないから無駄なことしてないで早く仕事して」
私「え、それだけ・・・」
ガチャ切りする怨敵・・・

お前の電話が一番無駄なんだよ、馬鹿野郎

用件もないなら1時間に6回も電話してくんな! お前は倦怠期の彼女かよ!
そのうち「私達って何なの、あんたに使った時間返してよ」とか言ってくんじゃないのか。
もうスニッカーズ3本まとめて丸かじりしたいくらいの怒りですよ。



部屋駆けだして橋の上まで行って「うわぁぁぁぁぁぁ~」と叫びたいくらい。(仕事場の近くに橋なんてないですから、実際には地下鉄に乗らなきゃいけないわけですけど。だからこれはまだ未経験)

もう電話いらないんですけど。

で、会社で電話鳴った時って、必ずと言っていいほど電話苦手な人が取ることになってるんですよね。

お前ら仕組んでんだろと言いたいぐらい。
私が一息入れようとやっと手を置くと、『プルルルル、プルルルル』ですからね。
これで毎回驚いた猫のように背中が伸びてしまう、電話が苦手な私。

「あっ あっ はい・・・ あっ」みたいな感じで『千と千尋の神隠し』のカオナシのように話す私。きっと「あの会社にカオナシいるぞー」と噂されていたに違いない。


そしてきっとこれは私がアホなのでしょうが、電話が苦手なりにも要領よく通話を済ませると・・・あれ、今の電話どこの誰からだっけ・・・何話してたっけ・・・そもそも私は誰・・・ここはどこ? と、なるのです。
メモくらい取っておけって話です。
でもね、急に鳴った電話取らされてメモまで取れるほど私は心臓が強くないんです。

会社の『プルルルル、プルルルル』って着信音が夢の中でも聞こえるくらい、電話が嫌いでした

もうね、業務連絡も何もかもメールでいいですよ。
そして怨敵のように意味のない電話はかけてこないで下さい。私怒りをおさめるのにスニッカーズ食べ過ぎて破裂してしまいます。

でも意外と得意な電話もあって、それは相手が架空請求業者だった時。


これまで何度か経験があるのですが、
架空業者「あのですね、半年前に登録された○○○ってサイトの月間費と入会費用がまだ支払われてないんですよね~。合計で18万円になるのですが今週末までにお支払いいただけない場合は裁判になりますので早急にお支払いお願いしたいのですが・・・」
私「どうぞ裁判起こして下さい。お疲れさまでした」
これでガチャ切りしてしまえば二度と電話はきません。
会社での電話のように「あ あ・・・」なんて言ってると鬼のようにかけてくるんでしょうけど。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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2017年9月29日金曜日

春への扉


また読み物を一つ置いておきます。
また美術品を使わせてもらった読み物です。
ゴッホ作の『タンギー爺さん』とヨハネス・フェルメール作の『ヴァージナルの前に座る若い女』を登場させました。





お時間があればお楽しみいただけると嬉しい次第です。
 注 けっこう長いのでお読みになる人は覚悟してください。



     ・春への扉

私は今日も扉を叩く。
開くことのない扉などない。どんなに頑強な扉でも誠意を持って叩けばいつか開くときがくる。そう信じて4日目。今日も扉が開かないであろう予感に、私は逃げ出したくなる気持ちを抑え、扉を叩き続ける。
 鉄を元に作られた扉を叩く音は、高く響くことは無く私の足元に落ちるだけ。落ちた音はきしむ床の隙間を抜け土に沈む。
「おおい、私だ。開けてくれ」
鉄の扉の奥から部屋の主の声が聞こえる。
「また来たの?あなたも暇な人ね」
「暇なもんか。私の店には客が絶えない。それも嬉しいことに彼らには多くの希望があるんだ。希望や夢を抱き、掴み取れる可能性は極めて少ない星に手を伸ばしている。そんな彼らと話をするのは私の楽しみの一つなんだ」
ヴァージナルの音色に女の声が乗る。
「じゃあさっさと帰って夢追い人たちの苦労話でも聞いてあげなさい。そして高い画材を売りつけるの。それがあなたにお似合いよ」
「そんなことは言わないで私の話も聞いてほしいんだ」
何度もこの扉を隔て口論してきたのだから、私にはもうわかっていた。気の強そうな声を出している彼女の内側には、繊細な弦が貼られている。音を出すために弦を弾くのをためらうほどの繊細さ。それを隠すように彼女は声を張る。
「いいからもう帰って。あなたと話すことなんて何もないの」
怒る彼女に聞こえるよう私はもう一度扉を強く叩く。私は人を怒らせるのが得意なのだ。
「君が私と話をしたくないことは知っている。だが私には君に話したいことがたくさんあるんだ。君が考える、君のための理屈が正論として通るこの部屋にいては、君のキャンパスは薄汚れていくだけだ」
私の言葉にヴァージナルの音色は止み、彼女の吐息のような静寂が私を包み込んだ。無くしてしまった家の鍵を一人で探す子供の背中のような寂しい静けさ。
 私は理由もなく下を向き半歩後ろに下がる。すると突然鉄の扉が開かれた。ジンクホワイトに薄くフレッシュピンクを混ぜ合わせた顔色の女性が顔を覗かせている。美を求めるために余分なものを削ぎ落とす前の素朴な顔。一切の色付けがされていないがゆえに、彼女には一欠けらの美しさがあった。
「何?また私に説教でもする気なの?」
彼女は怒っている。その理由は簡単にわかる気がしたが、私はあえてそこから目を逸らす。年老いてまで責任を負うことは、足枷を増やすことと同じだ。生きることにより増えていく足枷は、もう私は増やすことも出来ないほど多く身に着けている。
「説教ではない。それより見てごらん、降り続いていた雨がようやく止んだよ。地上に降り落ちた天からの雫が春の日差しに照らされている。私と少し外を歩かないか?」
彼女は眉間に皺を寄せ皮肉に笑う。
「どうして私があなたと歩かないといけないの? 理由は?」
「理由なんてないよ。ただこんな部屋に閉じこもってヴァージナルの音を奏でているよりは、私と外を歩く方がまだ有意義な時間が過ごせるから誘っているんだ。時には大地が奏でる自然の音を聞くのもいいものだよ。そうすれば殻に閉じこもっているのがきっと嫌になるさ。だからひとまず手を止めて外の空気を吸うんだ」
「それは理由というのよ」
「そうかな?」
「きっとそう」
短い言葉の後、彼女は自分の姿を見下ろす。服にエルテンスープでもこぼしたのだろうか。
「困ったわ?」
私は黙ったまま彼女の言葉の続きを待つ。
「あなたのお誘いに興味を引かれていることは否定できない。たまに外の空気を吸うことも悪くはない。でも駄目ね、この服は私のお気に入りなの。この服を着ていつまた雨が降りだすかもわからない外にお出かけすることは難しいわ。冷たい雨に打たれてこの服を濡らすのも嫌だし、その・・・」
何故か彼女は言い淀んだ。喉を詰まらせたように私を見る。もの目には申し訳なさの影がチラリ。
「何だい。言ってごらん」
彼女の大きな目で瞬きが二回。刹那の瞬間を撮影するカメラのようだ。
「これだけ私にとって悪条件が揃っている中で、それでも私を外へ連れ出すだけの魅力があなたには無いわ。残念なことだけどね」
夜の街に佇む街路灯の気持ちが私の内面と重なる。老いてもなお女性から断られることは辛く悲しい。だが老いとともに得た経験により傷は浅かった。
「それならば私はいないものと思って歩けばいい。私の事は忘れ歩くんだ。そして君は雨が上がった綺麗な道を歩く途中で気づく。こんなに美しい道を歩いているのに私は一人。ガラスの上を弾み踊る水滴のように瑞々しい鳥たちの鳴き声を聞き、君は急に一人が寂しくなる。そして、ひび割れた油絵のような気持ちで君は後ろを振り返る。そこには老人が立っていて、君は仕方なくも私に近づき一緒に歩く。それでいいじゃないか」
鉄の扉から顔を覗かせる女性の顔に好奇心が走り、薄く笑う。
「あなた女性と付き合ったことは?」
「ないよ、私の記憶する限りでは一度もないな。だから妻も子もいない」
女性は扉を大きく開き、顔を崩して笑った。
「でしょ?私こんなに女性を誘うの下手な人初めて見た。もうちょっとカッコいい言葉使わないとダメだよ、お爺ちゃん」
私は貶されたのだろうか。だが笑う彼女の顔に私を毛嫌いするような感情は見られない。私の誘い文句が酷いということは否定しないが、彼女が緊張の糸を緩めてくれたことに安心した。安心が傍らにある時、人生は充実を見せる。
 私は笑い続ける彼女に聞く。
「私の言葉はそんなにおかしかったかな」
「女性を誘ってるのになんだか腑抜けてて、それでいて強気でもあるから、聞いててお腹こちょばされてるように笑えてきちゃって。ごめんね」
小さな窓から差し込む健気な春の日差しと、暗い廊下で一人笑う女性。そのコントラストに私は掃き終えたホウキから宙に舞い出すホコリを重ねた。寂しい美しさ。悲しみはなくともそこには拭いきれない寂しさがあった。
 彼女は腰を折ったまま右手を上げた。
「何か久し振りに笑わせてもらったわ。そのお礼ってわけじゃないけれど、いいわ、一緒に歩いてあげる。何か私に話したいこともあるみたいだし」
「ありがとう」
彼女はようやく顔を上げると私の顔を見て、それから流れるように私の足元まで視線を泳がせた。
「今のは何だい」
ゆっくりと首を振る彼女。
「忠告は必要ないみたいね」
「忠告?」
「そう、悪い事しないようにって忠告よ」
彼女は部屋に半歩足を踏み入れ、振り返った。
「準備してくるから少し待ってて」
鉄の扉の前に再び一人残された私はため息をつく。今の私の姿を最近店によく来る彼ならどう描くだろう。きっと紫と黄緑色を点描させた背景に立つ私には赤と青緑を使い、ため息には青紫と黄色。後の世で後期印象派を代表する画家として知られる彼が描く私に思いをはせ、彼女を待つ。
 十数分後、外出の用意を終えた彼女の手により鉄の扉はまた開かれた。薄暗い廊下に立つことは辛いものがあったが、扉が開き出てくる誰かを待つという希望があると、廊下にも暖炉の暖かさが広がる。存在はしなくとも私を内側から温めてくれる暖炉。
必要としないかもしれないが、この暖かさが彼女にも伝わればいいと私は思う。どんな局面に立つにせよ、内面が暖かい時は幸せに触れていられるから。
 十数分待たされた後、外出の用意を終えた彼女の手により鉄の扉は開かれた。三日ぶりに美味しい紅茶を飲んだかのように、上機嫌に開いた扉の前には先ほどと同じ服装の彼女。万が一の雨にも濡らさないように、服を着替えていると思い込んでいた私は十数分前と一点も変化もない彼女に言う。
「着替えているものとばかり思っていたよ」
「着替えようと服を選んでいたのは確かよ。でも駄目ね、今日は服が私を招いてはくれなかった。こんな日は無理に選ばない方が正解なの」
「その原因にあるのは私かな。扉の前で待つのが素敵な紳士ではなく私であったため、クローゼットに並ぶ数十着の服たちは君に着られることを拒んだ。それはつまりは君の心の表れだ」
「そうじゃないの。確かにあなたが素敵な紳士より見劣りするのは事実よ。まだ誰も突き止めてもいない宇宙の真理のように確たる事実。でもそうじゃない。私は服を招くことが嫌なの。服を着るということは一種の意思表示であって、私という人間を周囲に知らしめる行為に近い。その行為には着る側と着られる側の一致が必要で、私だけの意見で着る服を決めても何だか一体感が出ないの。そんな時はどんなに高級な服でも駄目。美味しくないキャラメルを口の中に放り込んだ気分になっちゃう」
理路整然と服を着ることに対する理念を語っていたかと思えば、突然キャラメルという表現を使う。不思議な女性だ。
「君の言う事は半分理解した。残りは私自身が納得できるまでに時間が掛かりそうだ。だからそれは家に戻ってから考えることにする。それより早く行こう。君の部屋からもこの薄暗い廊下からも抜け出して、春の光を浴びるんだ」
「でもやっぱり雨が降らないか心配だわ」
「心配ないよ。雨が降って来るなら両腕を広げ全身に浴びてやろう。春の雨に打たれることも人生の楽しみの一つなんだから」
「お年寄りって面白い方が多いけれど、あなたは特別ね」
私は隙間風すら吹きそうな老いた胸を張る。
「たくさんのことを経験してきたからね。生きるほどに経験は積まれ、私という個人が確立された。確かに特別なのだろうね。君と同じように」
「私も特別?」
「特別さ。誰だって特別なものを持っている。特別であるがゆえに人は悩み成長していくんだ。わかるかな、悩みを持てることは特別な人間の証なんだ」
不思議そうな顔を見せる彼女を連れ、私は歩き始めた。薄暗く冷たい廊下の先にある春の日差しを求めて。
 外には春の日差しが満ち満ちていた。穏やかで陽気な空気がステップを踏み踊り出す、春という贈り物。毎年我々の元にやって来るのに、どんな筆と絵の具でも完璧に描くことの出来ない、愛しい空気と春の色。
眠くなる甘さに抱きしめられている私の隣で、彼女は冬の布団から起き上がった春のように、眠たげに目をこすっている。
「どうだい、春の肌触りは」
「私にはまだ刺激が強いみたい。春の色彩が靴も拭かずに私の中に入って来る」
新緑から一粒の雫が彼女の髪に落ちた。だが彼女にはその自然のイタズラを気に留める様子はなく、広がる春の隅々に意識を向けているようだった。
春の上に描き出されたような彼女の色彩に私は目を奪われる。自然と美の融合、人類が先の未来まで追い求める芸術品の香りがここに。
「で、どこに行くの?」
私は彼女に聞き返す。
「君の好きな色は?」
質問に質問で返した私に対し、更に質問をかぶせることは意思に反するらしく、彼女は考える表情になった。困惑の色を浮かべているが、それも仕方のないことだ。
 意味不明な老人の質問に、春を見上げながら彼女は答えた。
「青ね。海のような青が好き」
彼女らしい言葉に私はうなずき、新緑が芽吹き生命の音を奏でる並木歩道を指さす。
「ウルトラマリンブルーだね。フェルメールの愛した色だ。それならばあの道を行こう」
「どうして青ならあの並木道なの」
「深い理由はないよ」
彼女は笑い私を見る。
「浅くても理由はあるんでしょう。私はそれを知りたいの」
「答えに焦がれるほど、知った時の落胆は大きいよ。なんだ、こんなつまらない理由だったのかと」
「だから聞きたいの。答えに焦がれ焦燥の吐息を聞く前に」
「困ったな。君はすでに強く答えを望んでいる」
歩き始めた私の後ろを、彼女は風のようについてくる。目を覚ました花々の香りを乗せた春の風のよう。
「ねぇ、教えて」
「君が好きだと言った青と、並木道の色彩関係が美しかった。並木道の黄緑色、そして君の選んだ青。黄、緑、青これらは色彩を表す際に横一列に並ぶ色なんだ。素晴らしい回答だった」
「イランイラン、カモミール、ジャスミンみたいね。横一列に並んでいて互いを引き立て合うの」
「それは何かな?」
三つの言葉の意味や関連性を理解できていない私の反応を見て、彼女はずる賢く笑う。
「アロマよ。フローラル系の香りで私が好きな三種類。代表格のローズやラベンダーもいいけど、やっぱり私はこの三つが好き」
「意外な一面だな。君が香りに詳しいとは」
「人間は多面性の生物よ。ヴァージナルを弾くだけが私じゃないの」
私は後ろを歩く彼女を見る。
「いい日差しだ。春を歩こう」
 私たちは春を歩いた。春の並木道を歩き、春の景色を見て、春の香りを思い切り吸い込む。私たちは成熟前の空気に喜び、キャンパスに薄く暖かい春の色を描いていく。冬の名残を残した冷たい川のせせらぎの音が気持ちよく耳に届き、部屋から出ることを嫌がっていた彼女も春を満喫しているようだ。遠慮がちに手を開き歩く彼女に涼やかな風が吹き、それを受け入れるかのように一人笑う。その姿に私は風にそよぐ一輪の花を思った。
 私は目的の店に行くため街のメインストリートを指で示したが、彼女は首を横に振る。
「久し振りに部屋から出てばかりの私には、まだ人通りの多い道は辛いわ。それより私ちょっと行きたいところがあるの。道案内の役、少しの間だけ変わってもらってもいいかな?」
私の第一の目的は、部屋でヴァージナルを弾き続けていた彼女を外に出してやることだった。それが果たされた今、彼女の好まないメインストリートを歩く必要は何もない。それよりも彼女の道案内に期待を寄せる私がいた。
「いいよ、好きに歩くといい」
「ありがとう」
今日初めて私の前に立った彼女は足取り軽く、街のメインストリートに真っすぐ続く並木道を外れ右に折れた
 並木道を外れた私たちは簡易に舗装された道を歩き、街にクモの巣のように走る路地の一つに入った。いつもは湿っぽいこの街の路地も、今日は春に抱かれ柔らかな表情を見せていた。夕焼けに赤く染まりコーヒーと景色を楽しむ老人の顔のよう。
 彼女はそんな街の路地を足早に歩いて行く。後ろに年寄りが歩いているのも忘れたのか、振り向きもしない。表通りで人気のパン屋の厨房からはブリオッシュを焼く香りが漂い、息を切らしながらも私は好物の香りを吸い込み、水の中を泳ぐように彼女を追う。
 そろそろ音を上げそうになっていた私を気遣ってくれたのか、路地裏の素っ気ない広場の片隅で彼女は足を止めた。広場のベンチには街からあぶり出されたような人間達が座り、それでも陽気に会話をしている。この街の人間は人生に暴風が吹き荒れようと、陽気な心を捨て去らない。自慢の街に座り、自慢の街の空気を吸う。それこそが幸せの形なのかもしれない。街の端で人生の真ん中を歩く彼らから目を離し、私は地味な建物の薄く汚れた壁に耳を寄せる彼女を見る。
「そこで何をしているんだい」
眠るかのように壁に寄り添っていた彼女は目を開き、黙って私を手招きする。早くこっちに来て私と同じようにして、と声を出さずとも私に命じる意志の強い招き。
 苦笑いを浮かべ私は彼女の形を真似、壁に耳を寄せる。目を閉じることまで真似る必要はなかったのだろうが、壁に耳を当てる行為は必然的に目をつむりたくなるもので、私は必然の衝動に歯向かうことなく目を閉じ、壁の内側の音を探った。
 室内からは虫の音のように連続した機械音が聞こえて来た。彼女よりずいぶん長い時間を生きてきたため私にはすぐに音の正体が分かったが、楽しそうにこの音に興じる彼女に要らぬ気を使い、私は答えが分からない振りをした。
「この音は何だい」
彼女はすぐに振り向き私を見る。私と彼女が壁に耳を当てたままの鏡映りの体勢になり、年老いた私は恥じらいを感じたが、彼女は笑って答える。
「わからないの?信じられない。ミシンよ、ミシンの音」
私の予想通りの答えだった。
「ミシンか。それでこの音は何か特別な物なのかな」
小さく頷きかける彼女。こんなおかしな行為を楽しんでいても、彼女から知性の色が抜けないのが私には不思議だった。知性的な人間は何をしても知性を失わず、むしろ研ぎ澄まされてさえ見える。私が持たないものに嫉妬を感じないでもなかった。
「ここはね、ミラノでも有名な仕立て屋さんのお店なの。目が飛び出るような値段の布に躊躇なく線を引いて躊躇なくハサミで裁断する。そして依頼人の身体に合うように細かな調整を積み重ねた上で、ミシンで縫っていくの。私はその音が大好き。理由はないけれど私の内面に染み入ってくる音なの」
私は息をひそめもう一度壁に耳を寄せる。連続して布を縫うミシンの機械音から、彼女の言うものとは違うのかもしれないが、確かに愛しく暖かな音にも受け取れた。耳に続く音がソーダ水で薄めたスコッチのように、ほのかに私を酔わせた。
「どう?」
彼女から発せられた短い言葉も、壁から伝い漏れるミシンの音と同じように私の心を揺らす。恋愛感情ではなく人間的・心理的な感情が彼女に惹かれていることを私は知る。
「うん、落ち着くね。母親が作ってくれたココアのように心が安らぐよ」
彼女は淡い笑顔を浮かべる。
「私子供のころから辛いことがあると、ここに来てたの。そしてスカートが汚れるのも気にしないで座り込んでこの音を聞いていた。なんでだろう、わからないけれどこの音が私の支えだった。枯れ葉のように心が傷んでも、ここに来れば立ち直ることが出来たのよ。私は強くなくたっていい、弱いなら弱いなりに生きていければいいって思えたの」
彼女は言葉を止め、白い手も壁に寄せる。壁に貼りつくような体勢になった彼女の目から乾いた涙が落ちたように私には思えた。
「でも、いつの間にかここにも来れなくなっていた。あんなに好きな音だったのに。空っぽになるほど、空虚な自分が愛しく思えていたのかも。ここに来ちゃ駄目、来たら満たされて前を見る義務に悩まされるって。愛しい音から自分を切り離して、私は安全な私の中に閉じこもっちゃった。そしてそんな自分をごまかすようにヴァージナルを奏でるの。生きているという形を保つために」
私は指の先で壁にこびりついた茶色い汚れを削る。
「どうする?もう帰ろうか」
暗い声を出した私に彼女は笑う。
「ここまで来てどうして帰るの?お爺ちゃんが私を案内してくれるんでしょ。ここのミシンの音も聞けたし、私今日はどこへでもついて行ってあげるわよ」
「そうか、私はてっきり君が落ち込んだものと思っていたよ」
彼女は腰に手を当て私の顔を覗き込む。
「どうして? 私が落ち込むのは朝のスープが美味しくなかった時だけよ」
「私は妻の機嫌が悪い時に落ち込むよ。特に起き掛けに不機嫌な妻を見るのは最低の気分だ」
「あなたさっき妻はいないって言わなかった?」
「ああ、言ったよ」
口を半開きにして固まる彼女に私は言葉を続ける。
「私の頭の中にはしっかりと妻がいるんだ。私がダイニングに画材を持ち込むと妻はいつも怒る。『その油臭い絵の具をここで使わないで』『汚れた筆をテーブルの上に置かないで』とね。妻にとっては私の行動の全てが憎らしいのだろう」
「リビングは奥様の所有地帯なのね」
老人のたわごとにも耳を傾けてくれる彼女に感謝の花を一輪。
「それでも私が席を離れずにいると、妻は怒り私の頭に作りかけのグラーシュを鍋ごとかけるんだ。全く、酷いことだよ。まぁ想像上の妻だけどね」
「おかしな人ね」
「妻の事?」
「いいえ、あなたの事よ」
私は背を伸ばし春を一つ吸い込む。ヒメオドリコソウの香りを運ぶ春の味。
「それならよかった。さぁ、行こう。少し道を戻ることになるがいいだろう?」
「それも悪いことではないわね」
 息を切らせて始まった寄り道で、私たちは安らぎの森に椅子を置き息を落ち着かせ、再び歩き始めた。足は軽く、街には透明な華やかさが満ちているようだった。
 彼女は本当にこの街に来たのは久しぶりのようで、街の至る所に目を向けていた。色を選ばずとも洗練された色合いの街。そんな街が彼女には懐かしくもあり、変わりゆく外観に少し悲しみも感じているように見えた。
 先日オープンした黒を基調としたシックな店内に色とりどりの花を並べた花屋に足を止める彼女。小ぶりな扇を咲かせた花を彼女は愛おしそうに眺めている。
「もう11時だよ。早く行かないと店が混雑してしまうかもしれない」
「待って、この花を買っていくわ」
「帰りに買えばいい。まさか全部売り切れることなんて無いだろうし、花を持ち歩くのも邪魔だろう」
彼女は花屋の女性店員と顔を見合わせた。声を出さずとも伝わる会話をしているようだ。
彼女は首を傾け女性店員はそれにうなずいている。
「花との出会いは理屈では片付けられない神秘性があるの。出会い心惹かれた時に懐に包み込んであげないと駄目。人間と同じね、機会を逃せばどれだけ叫んでも思いは胸に響かない。抱きしめたいときに抱きしめてあげなくちゃ」
色とりどりの花の中に立つ彼女に、私は何も言えずに立ち尽くした。論理的ではないが倫理に触れる彼女の心の指先。あと何十年筆を持てば私はこの透明な美をキャンパスに描くことが出来るのだろうか
 結局彼女は三種類の花を一輪ずつ買い、身体に添わせるように当て私の隣を歩いている。
フランスパンのように花を抱く彼女と、遠くに見えるスカラ座の話をしていると、ようやく私の目的とする店が見えて来た。
「ああ、あった、あった。あそこだよ」
歩道の内側を歩いていた彼女からは店が見えないのか、私の前に顔を出し歩道の左側を埋め尽くす店に目をやる。
「ファッション関係の店しかないみたいだけど、私を案内したかったのってそういう店?服でも買ってくれるつもり?」
私は首を振る。
「そんな気はないよ。よく見てみなさい。ほら、高いヒールの女性が歩いている所」
私が指をさしたネイビーのトレンチレインコートを着た女性に、彼女の目が向けられ、瞬く間に女性から灰緑色の外観のカフェに視線を移した。一瞬しか彼女の視線を奪えなかった、この春最先端のファッションに身を包んだ女性の背中の切なさが私に染み入る。
「この街らしいカフェね」
「あのカフェは創業80年を超えるカフェでサンタンブロージュという店だ。世界的有名ブランドのヴェルサーチの創業者も通っていた店で、今でもファッションやオペラ関係者が多く通うミラノを象徴するカフェさ」
「そんな凄いカフェがこんな所にあったんだ」
「この街の近くに住んでいるのに知らなかったのかい?」
澄んだ横顔は私を映し出すかのよう。
「言ったでしょ。私、大通りとか人の多そうなところは最近はあまり歩かないの。でも何だかいろんなお店があって神様のタンスの様な街。どの引き出しを開けても素敵なものが詰まっていそう」
「でもたまには来てみて良かったんじゃないかね」
「悪くはないわね。隣に立つ人がうるさい男じゃないからかもしれないけど」
「確かに君の周りにはハエのような男たちが寄ってきそうだ」
私達は笑いながら老舗カフェの扉を開けた。
 硬い椅子に腰を降ろし、私は驚いたようにメニュー表に釘づけになっている彼女を見る。
「好きなものを選んでいいんだよ」
「私にはわからないものが多すぎるわ。あなたが決めて」
私は手渡されたメニュー表を閉じてテーブルに置き、彼女に聞く。
「ではコーヒーとアイスでいいかな? アイスは種類が多いけどどうする」
スズメの瞬きのような一瞬の間が私たちに流れ、彼女は笑みを浮かべる。
「ここはあなたが案内してくれたお店でしょう。だからあなたに任せるわ」
私はうなずき、店員が私の近くを通るのを待つ。店員を呼ぶことも可能だったが、私は忙しそうに客に対応している店員を呼びつけてまで注文するのが苦手だった。慌てなくてもコーヒーとバニラアイスは私たちの元に必ず来るであろうし、彼女も待つことを苦としない人間のように思えた。それならばわざわざ店員を呼びつける必要はない。このような女性といると、待つことさえ有意義な時間に変えてくれる。
 言葉を交わし合い数分後にようやく店員を捕まえ、私は二人分のコーヒーとアイスを注文した。長年この街の中心で店を続けてきただけのことはあり、おかしな組み合わせの私と彼女に対しても手際のよい愛想よさで我々の注文を受け、風のように注文票を店の奥に運こんで行った。
彼女はその店員の姿がカウンターの隅に消えるまで目で追い、忘れていたかのように私に目を向ける。
「いい店ね」
「この街で私が二番目に気に入っている店だからね」
「あなたにとってここは最上の店ではないのね」
彼女はテーブルに肘を乗せ、猫のように丸めた手の甲に口を寄せた。おそらく意識せずに整えられたその姿勢は、挑戦的な空気がまとわれていた。カフェで向かいの席に座る女性たちは皆、手練れたカジノディーラーの顔を見せる。
「私の中で最も上にランク付けされている店も老舗でね、コーヒーが格段に美味しいんだ。でも残念なことに、私はあの店に女性を連れていく勇気はないな。コーヒー好きの女性ならまだいいかもしれないが、ほとんど中身を見せてくれない君をそこに連れてはいけなかった。だからその店から一つ階段を降りたここにした。この店は女性からの人気も高いと聞いていたからね」
「私はコーヒー好きよ。下手なお世辞よりも私の心をなだめてくれる」
「それなら後でその店の住所を教えてあげるよ。今度行ってみるといい」
「そこの住所を知る必要はないわ」
私が目を見ると、彼女はわざと首をすくめる。
「またあなたに案内してもらえばそれで済む話でしょう。住所を書きインクを減らす必要はない」
「嬉しい言葉だけど、私に優秀なダンディズムを期待してはいけないよ。女性をエスコートした経験の極めて少ない人間だからね」
「その割には今日は水晶玉のように綺麗なエスコートをしてくれているじゃない。好きよ、私。あなたのエスコート」
私は褒められた嬉しさを隠し、フォーレのレクイエムを弾くように静かに言葉を続ける。
「路地裏で息を切らせはしたがね」
「あれは私が急いだから。あなたのせいじゃない」
「でも安心したよ」
形の悪いワイングラスのように顔を傾ける彼女。
「せっかく久し振りに外を歩くのに、こんな老人がいては邪魔になると思っていたから、君に不快感を与えていないことに安心したという事」
「あなたは年老いている分、そこら辺の気取ったお坊ちゃま達より多くのことを教えてくれる。あなたと歩く春の街はここ数年で一番綺麗だった。年を取ったからって自分の価値が落ちたと思わないでね」
何故か彼女に諭され、私は小さく礼を言う。
「ありがとう」
 その時、私の言葉がかすむくらい大きな女性店員がテーブルの横に立ち、私達が注文したものを置いていった。綺麗な店内に並べられた品のあるテーブルの上に乗せられた、二つのコーヒーと二つのバニラアイス。それは妙に寂しい光景であったが、彼女は感慨の声を上げてくれる。
「わぁ、何だか素敵」
「こんな質素なテーブルに喜んでもらって嬉しいよ」
「時にはシンプルなテーブルの飾りも必要。それがコーヒーとバニラアイスだなんていい事じゃない。広いステージの上のバレエダンサーみたい。どんな踊りを見せてくれるのか楽しみ」
「優雅に回転は出来ずとも、爪先立ちくらいは上手にやってくれるはずだが」
私がコーヒーカップを持ち上げ香りを楽しむと、彼女も私を真似て香りに顔を近づけた。
目には見えない香りに浸り、穏やかに目をつむる彼女の表情は妖艶にさえ見えた。
「どうだい?」
彼女は香りの中から眼球だけ上に向け私を見る。
「私が普段飲んでいるコーヒーとは全然違うわ。甘く上品な香り。それでいて自信に満ちている。早く飲んでって私を誘っているみたい」
恐らく上等なコーヒーを知らない彼女にしては優秀な答えだった。
「誘われるがまま飲んでみたらいい」
「ええ」
彼女はコーヒーカップに口をつけ、まだ熱いコーヒーを口内に送り届けた。熱に一度顔をしかめはしたが、彼女はコーヒーを口に含み、一遊びの味わいを終え喉に通した。
「美味しいわ。苦みと酸味が調和している。上手くは言えないけれど学校で一番優秀な生徒って感じ。勉強もスポーツも恋愛もバランスよくこなしている子みたい」
私の反応を伺う彼女に、ゆっくりとうなずいてやる。
「言い得て妙だな。君の表現はつたない所もあるが、満点に近い点数を与えることを私は躊躇しないよ。それだけ君はこのコーヒーの優れた点を見抜いている」
「本当」
春の陽気のように笑顔を見せた彼女からは妖艶さは消えたが、年相応の女性らしい花の様な空気もまた晴れやかに私の心をくすぐった。
「これはコーヒーの王様とも言われていて、君が言った甘み・コク・酸味・苦みを全て高いレベルで兼ね備えている万能選手なんだ。特にこの店では大粒の豆を使っているため、高品質・高水準な味わいで私達を楽しませてくれる」
「完璧な彫刻作品のようね。ちょっと安っぽい表現だったかもしれないけど」
「安っぽくなんかないよ、その通りだ。これほど均整の取れたコーヒーを私は知らない」
出勤前の人間が時計を気にするように、彼女はテーブルに置かれたバニラアイスを見た。
「それも食べていいんだよ」
「でも私の周りでも怒る人いるよ。コーヒーと甘いものを合わせるなんて邪道だって」
私は笑う。きっと彼女は私がコーヒー好きなのを気にして、世の評論家たちの述べるコーヒーの作法から外れる動きをすることをためらったのだろう。私のことなど気にする必要は全く無いのに。
「いいんだよ。無理に正しい飲み食いをする必要はない。人には人それぞれの楽しみ方がある。形ばかり気にしていたら、せっかくの豊かな時間が遠のいてしまう。さぁ、どうぞ」
彼女の顔に幼げな笑みが一つ浮かぶ。
「本当のお爺ちゃんみたいね」
「そうではないよ。私は結婚すらしたことが無いんだ」
「理屈屋さん」
「老いることに比例して理屈の数も増えていくのさ」
「また理屈」
スプーンですくったバニラアイスを食べ、彼女は再びコーヒーを飲んだ。
左手にスプーン、右手にコーヒーカップを持つという不格好さ。飾らぬままの美しさが私の前にあった。
「本当に美味しい。こんなにシンプルな組み合わせなのに…うん、出会えた喜びと幸せを感じさせてくれる。不思議ね、テーブルの上は物寂しいくらい質素なのに、フルコースの料理のように私を楽しませてくれる。私って貧乏舌なのかな」
「コーヒーとバニラアイスで、フルコース並みの喜びを感じられる事。それも一つの才能だよ」
「優しいのね、タンギーお爺ちゃん」
私には彼女が輝いたように見えた。深く儚い輝き。
「私を知っているのかい?」
「何日も扉を叩かれている間は、あなたのことは迷惑な人との認識しかなかった。でもこうして顔を見ながら話していると分かってきたの。あなたの背景が教えてくれたのかしら」
彼女の言葉に私は振り向いたが、そこには空席のテーブルと椅子があるだけだった。
「何も見えないが」
「きっと自分の背景はその目で見ることが出来ないのよ。振り返れば背景はそのままあなたの背中に移動する。永遠に続く追いかけっこね」
「私の背景には何が見えているのか教えてもらいたいな」
「私にはあなたのような知識はないから上手く伝えられないとは思うけれど、それでもいいなら見たままを伝えてあげる。今日のお礼よ」
「知識が無ければ的確に表現できない物が、私の背景に映っているのか。尚更興味がわいてきた」
彼女はワードパズルに挑むような目で私を、いや私の背景を見る。
「絵画ね」
「絵画?」
「ええ、大きな緩さを持ちながらそれでいて繊細。そして明確な線。それらが私は見たことのない絵の具で描かれている」
「情報が少ないな。まるで実態がつかめない。雲にソースをかけて食卓に出されたみたいだ。
皿の上に広がるのはこぼれ落ちたソースだけ」
「だから言ったでしょう。私には美術的な知識はないの」
私はテーブルの上のコーヒーを一口飲む。先ほどよりも少し強い酸味が顔を覗かせていた。
「具体的に説明してほしいな。それは一体どんな絵画なんだい。何がどう描かれている」
彼女は一瞬迷った表情を見せたが、そこに佇むことなく口を開く。
「見たことのない優雅な服を着て、強くメイクをした女性の絵画が3枚はあるわね。それに花の絵にピンク色の葉を咲かせた木々。後は雨が降る橋の上を変な帽子をかぶって歩く人々の絵画。それがハッキリと大胆に描かれているわ。そしてどの絵も影を持っていない。異文化の絵画みたいだけれど、どこか私達の心に触れる美しさがあるわ」
彼女の言葉に私は手を叩く。隣の席に座る小奇麗な女性客二人がいぶかしげな視線を私に向けたが、今の私にとってそれは些細な問題にも値しないものだった。
「わかったぞ。その絵画の女性たちは美しい髪飾りを付けているだろう」
「どうしてわかったの?確かに髪飾りを付けているわ。でもこんなに派手な髪飾りでは、私は外を歩けないわね」
「私の店は画材や美術品を扱っているんだ。そして客もそれを使ったり、興味を示す者たちばかり。そんな店の店主をしていれば美術品にも詳しくなるさ。私自身、美術品は大好きだしね」
肘をつき指を重ねた手の甲の上に彼女は顎を乗せ、私を見る。
「答えを教えて。絵画を見ている私が、見えていないあなたにこんな質問するのもおかしな話だけど、あなたの後ろに映る絵画の正体が知りたいの」
「まだ確信のツタを掴んだだけで私の胸に引き寄せたわけではないが、君の知的好奇心のために答えよう。きっとこれは浮世絵だよ」
見えない背景を指さす私に彼女は聞く。
「浮世絵?聞いたことが無いわ」
「それはそうだろう。私達が浮世絵に触れあえる機会は極めて少ないからね。浮世絵は日本という国の絵画で、その作成法を知った時私は驚いた。なんと浮世絵とは絵の具を使いキャンパスに描いたものではないんだ」
「描かなければ絵にはならないわ。息を吸わなければ心臓だって止まってしまう」
知を求める人間に、その答えを教えられる喜びは私の胸を高ぶらせる。
「そう思うだろう。だが違うんだよ。描かなくとも絵画は作成できるんだ。まず下絵を書く、そして下絵の通りに版木を彫り、彫った版木に鉱物や植物から採取した天然顔料を塗り紙に擦る。それが浮世絵さ。私の画材店によく来るゴッホという青年が、大層その浮世絵を好んでいてね、浮世絵の収集に必死になっているんだ。彼は必ず大成すると私は信じているよ」
私の話を聞き彼女は笑う。
「何か可笑しかったかな?」
「ごめんね、難しい話なのに随分楽しそうに話すから何だかおかしくて。それに…」
「それになんだい」
「あなたの背景の浮世絵がまるで動き出すかのように生き生きと見えて。不思議ね、あなたの背景に何故浮世絵の絵画があるのか、そしてその浮世絵の背景があってこそのあなたにも思えてくる」
「わからないな。わからないけれど、ありがたいことだね。出来ることならいつまでも君に見えている背景を背負っていきたいよ」
「いつまでもずっと、浮世絵と一緒に。それがあなたらしいわ、タンギーお爺ちゃん」
「違うよ、タンギー爺さんだ」
私達は視線を結び笑い合った。はたから見れば意味不明な話で笑う奇妙な光景に映ったであろうが、私たちはそれで構わなかった。楽しい時、笑う以外には何が出来るのであろうか。
 空になったコーヒーカップと小皿が二つずつ並ぶテーブルで、彼女は大きく息を吐いた。
「はぁ~、こんなに美味しいコーヒーとアイスを食べて、こんなに楽しいお爺ちゃんと会話できるなんて、今日は楽しかったなぁ」
「たまには外に出てみて良かっただろう」
窓の外に泳がせていた視線を、彼女は私に戻した。
「あなたがいてくれたからよ。ありがとうタンギーさん」
「嬉しい言葉だけど私は関係ないよ。閉じこもっていた部屋から出たら、楽しいのは当然のことさ。自分の足で歩く外の世界にはいつだって春の空気がある。例えそれが極寒の冬であろうとね」
「冬は冬よ。極寒の世界に春があるなんて、ゴムボールをビー玉と言い張るようなもの」
私は顔の前で立てた人差し指を振る。おいぼれの勝ち誇った顔が彼女にはどう映っただろう。
「それは君が、冬を冬と決め込んでいるからだよ。探せば冷たい冬の中にだって必ず春は見つかる。足りないものがあれば探せばいいんだ。そうすればきっとそれは君の手にいつか握られる」
少し考え微笑みを見せる彼女。
「そっか、冬だと思っていればいつでも冬だし、春だと思えばコートが手離せない季節でも、今日のように楽しめるのかもね。気持ちの持ちようではいつだって春を歩けるのね」
私も意味もなくコーヒーカップの横で昼寝をしていたスプーンを持ち上げる。
「そうさ、我々はいつだって春を歩けるんだ。逆に辛い気持ちや悲しい気持ちをいつまでも引きずっていては年中が冬になってしまう。そんな時は自分で春を探して呼び込んでやるんだ。そして冬の中にいる人がいれば君の春を分けてやればいい。誰かに手を差し伸べること、それは人間が出来る最も正しい行動だと思うよ」
「あなたが私にしてくれたように」
意気込んで話をしていたことが急に恥ずかしくなり、私は笑いながら足元を見る。
「そろそろ出ようか」
「そうね、いい時間ね」
外はまだ明るいのに急に一日の終わりが来たような気がして、寂しさに揺れながら席を立つ。そんな私に彼女が一言。
「ちょっと待って」
彼女は慌てるように先ほど購入した花を包んでいる紙を開き、瑠璃色の花を一輪私に差し出した。
「これ持って行って」
私は老いた脳を稼働させたが、彼女の行動の意味することは見当もつかなかった。
「どういうことかな?」
渡された花を両手で摘まむ私を彼女は笑って見ている。
「似合ってるわよ、お爺ちゃん」
「否定はしないよ。私に最も近い色の花だ。だがこの花を持たされた理由がわからないんだ」
「簡単な話よ。その花が枯れる前にもう一度私の部屋の扉を叩いて」
手に持たれた花から漂う香りが、私の心を瑠璃色に染めた。
「いいのかな。また、訪ねて行っても?」
「あなたとなら、いつでも春の道を歩けそうだから」
「そうか。それならまた春を歩こう」
「待っているわ。また扉が叩かれるのを」
私はカフェの出口を手で示す。
「さぁ、帰ろう」
歩き始めた彼女に追い抜かされないようにし、私はカフェの扉を開けてやる。
 先ほどよりも強くなった春の日差しに私は目を細めたが、彼女は平気な様子で道を歩いて行く。出来立てのパンケーキのような陽気さで、メープルシロップのように甘い春の空気を全身にまとい歩く彼女。その背中に私は一つの疑問を浮かべる。
「私達は同じ道を通ってこのカフェに来たはずだ」
「そうね」
「ならば必然的に帰り道も同じとなるはずでは」
「そうよ」
「では何故あの店で花を渡したのかな。君の家の前で渡してくれればそれでよかったのに。おかげで私は人の注目を浴びながら街を歩くことになった。花一輪を持ち歩く老人、明らかに異質だ」
彼女は振り返った。その顔には強い笑み、この街の春のような表情。
「お返しよ」
「何の?」
「何日も朝からやかましく扉を叩いたことのお返し。次はもっと優しく叩いてね」
彼女はあんなに嫌がっていたメインストリートへ向かい歩を進めて行く。随分と軽快な足取りを私は追う。
「おい、待ってくれ」
明るい春の街に私の声が響いた。
                             芝本丈

最後までお読みいただきありがとうございました。

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2017年9月6日水曜日

チョコレートの距離と動く秒針


今日は読み物を。
今回使わせていただいた作品はベルナール・シャロワの『ル・ジャルダン』と冷たい画家と言われるフェリックス・ヴァロットンの作品を使わせていただきました。






お気に召すかどうかはわかりませんがお読みいただけたら光栄です




静かな午後の半ば過ぎ、時計の秒針が僕の背中に落ち、僕たちの時間は止まった。
白く整理整頓された部屋にかけられた時計の針が止まり、今日でちょうど一カ月。
カチカチと時を刻む音が聞こえなくなったのはいいことだ。時間の中に僕だけが取り残されているという事実が、確証ではなくなる気がしたから。
しかし刻々と過ぎていく時間の中で、自分の唯一の役割を放棄した掛け時計の物悲しさは、アスファルトを跳ねるカエルのようだ。行き場なく朽ち果てるのみ。インテリア時計として街角の小洒落た雑貨屋から僕の部屋に連れてこられたあの鉄くずも、いずれは彼女に見放され廃棄処分への道をたどるのだろう。
 紙を折る手を休め、針を動かさずとも堂々と僕の部屋の壁に居座る、彼女曰くヨーロッパ風のレトロなインテリア時計を眺めていた僕に、鉄くずの購入者の声がかけられた。それはまるで寝坊した子供を布団から引きずり出すような声。
「いつまでそうしてるつもり?」
この部屋と同じく、白く整えられた容姿を持つ彼女の口から発せられた言葉は、僕に対する嫌悪感を隠す様子はまるでない。人に対する彼女の怒りのゲージはそれほど低くはないのだが、何故か僕の行動は彼女の怒りに触れるようだ。それを認識している僕は淡々と声を出す。怒りに対し真っ向から怒りをぶつけるのは愚か者のすることだ。
「何の事?」
「聞かなくてもわかることは聞かないで。それよ、折り紙。私はあなたが紙を折っている姿が大嫌いなの。仕事に就いてもすぐにやめて折り紙ばっかり。あなたはその時計と同じ。一度止まったら再び動き出そうとすらしない」
僕は彼女を見ずに紙を折り続ける。今回挑戦しているのはペガサスだ。紙を3枚使用する僕にしては大作のため、息をするように怒る彼女に目を向けている暇などない。この紙にペガサスの姿を与え羽ばたかせてやるのが今の僕の使命なのだ。その背中に乗りペガサスを操ろうなどという横柄な気持ちは微塵もないけれどね。
「こうしていることによって僕の心は安らぐんだ。社会には何の益ももたらすことのできない僕だけど、ただの紙には得られない価値を、命を与えてやることが出来る。この行為を君がどうかしていると思うことについて、僕は怒りを感じることは無いよ。君は立派な女性だし、社会の一員でもある」
僕は紙を折り続けながら、彼女の息遣いに耳を寄せる。フェンネルの紅茶を愛飲する彼女の呼吸にはスパイシーな緑が香りがほのかに乗る。きっと怒りを覗かせている今でも彼女の周りにはフェンネルの花が揺れているのだろう。
「社会から見れば僕のような存在など害虫だろう。ううん、人に害すら与えることのできない僕は石ころと同じかもしれないな。石ころと同じ無価値な存在。そんな僕を社会の一員である君がどんな目で見ているか、僕にはよくわかる。ただこれだけは忘れないでほしいな。そんな目を僕に向けるということは、僕が君に同様の視線を送ることを許容したことと同じなんだ。人を見下すということは、その見下される人と同じ位置に立たなければできないんだ」
僕の言葉に呆れたのか、彼女のため息が聞こえた。
「あなたとこの部屋にいると頭が痛くなってくる。私出かけるわ」
僕が初めて顔を上げると、彼女はハチミツと林檎のジンジャーエールを作る手を止め、キッチンを片付け始めていた。彼女は本当に出来た人で、僕のために得意なジンジャーエールをいつでも作ってくれる。「ジンジャーエール作るけれど何がいい?」と優しく聞く彼女に、僕は洋梨のジンジャーエールが飲みたいにも拘らずいつも「ハチミツと林檎のジンジャーエール」と答える。彼女が洋梨よりハチミツと林檎のジンジャーエールが好きなことを知っているのに、僕なんかの我がままを通すわけには行けない。僕に美味しいジンジャーエールを作ってくれる彼女の笑顔を壊したくはなかった。
 
 僕は立ち上がり、お気に入りの紺色のカーディガンを羽織る彼女に聞く。
「もうすぐお昼だよ。こんな時間にどこ行くの?」
「散歩よ。石ころのように部屋で転がっていればいいわ」
「待って、僕も行くよ」
僕はグレーのジャケットを急いで取り出し、部屋着の上に重ねる。その際にハンガーが床にポトリと落ちた。彼女はすでに一人部屋を出て行ったが、落ちたことを認識しながらハンガーを拾わずに行くのは心苦しくなり、指先で摘まみ上げクローゼットにかけ、今年で5年目の革靴を履き部屋を出る。時計が止まってから、僕と彼女のチョコレートの距離は消えた。
「待ってよ、ねぇ」
16戸だけの小さなマンションから出て、一人街を歩く彼女の背を追う。羽織った少し長めのカーディガンを風になびかせ歩く彼女の後ろ姿は、それだけで美しかった。優しく美しい神様の涙のような存在。こんな僕には絶対にもったいない人。野生の猿が世界一の高性能パソコンを持っているようなもの。キーボードの隙間は食べカスのバナナだらけ。
呼び止める僕の声が聞こえたようで、彼女は振り向いた。無表情を装ってはいるが、素直に立ち止まり走るのが遅い僕を待っていてくれる彼女は本当に優しい。怒っていても優しさが隠せない彼女の不器用さ、僕は好きだ。だからこそこんな僕の元には置いておけないとも思う。僕という檻の中に居ては彼女が可哀想だ。
「散歩ってどこに行くの?」
「どこに行くかなんて決まってないわ。だってこれは散歩なんだもん。風の吹くまま気の向くまま道を歩くの。そしてお腹がすけばパンかクッキーでも買ってたべてもいいし、喉が渇けばフルーツジュースを飲む。散歩にルールなんてない、自由に歩くの」
僕は覗き込むように彼女の横顔を見る。
「僕がついてきたこと、怒ってないの?」
「それに怒る理由はないわ」
「でも君は今確かに怒っている。どうして?」
薄いメイクをしただけの彼女も僕に目を向ける。
「無価値な人なんていないのよ。人間には誰にだって価値があるの。私にだってあなたにだって絶対に。ただそういうものは自分では見つけづらいから、自分を見失ってしまう人もいる。だけど無価値な人なんていない。誓ってもいいわ。私は折り紙をしているあなたが嫌いじゃないの。ただ上手くいかないからといって自分を無価値だとか見限るあなたの考えが嫌なの。だから自分の事を石ころみたいだなんてもう言わないで。そんなこと思っていたら心はどんどん汚れていくわ」
彼女の真剣な口調と目に僕はうなずく。
「うん」
下を向いた僕は彼女が水筒を持っていることに初めて気が付いた。彼女は大きめの水筒を肩から斜めにかけている。
「水筒持ってきたんだ」
「そうよ、お散歩に水筒は必要不可欠だから」
「用意がいいんだね」
「まあね」
彼女は小さく首を回し頬にかかった髪を払っている。
「じゃあ紙コップも?」
彼女はベージュのバッグを開き、中を探る。どうかしたのだろうか、閉じたままの唇を大きく左右に伸ばしている。困った時の彼女の癖だ。
彼女は手を止め、諦めたように顔を上げる
「忘れたわ」
バッグを腰に当て彼女は笑った。誰に言われるでもなく水面で神秘的に咲く睡蓮のような、僕の大好きな笑顔。
「どうする、部屋まで戻って持ってこようか?」
「そんなことしなくてもいいわよ。紙コップなんてどこでも売っているだろうし、なかったら水筒の蓋で飲めばいいのよ」
「でも蓋は一つしかない。でも僕たちは二人。これは大変な問題になるかもしれないよ」
コップ代わりの蓋が一つしかないことに焦る僕の脇腹を、茶化すように彼女がつついた。柔らかい指先。
「何よ、私と同じ蓋で飲むのは嫌?」
「ううん、そんなことないよ。でも君が嫌じゃないかなと思ってさ」
彼女は背を伸ばし、何も言わずに僕の頭をゆっくりと二度撫でた。これは彼女からの「心配しなくていいのよ」の合図だ。暗い山林の一部を照らす陽だまりのような温かさ。
 僕の表情を確認し彼女は一人歩き出した。
「さぁ、一緒に歩こう。こんなに穏やかな風と穏やかな空気があるんだもん。きっと私達の間違いだって許してくれるわ。歩いて仲直りしよ」
二人の喧嘩の原因を作ったのは僕なのに、仲直りの鍵を出してくれるのはいつも彼女だ。どうして君はそんなに優しいの? 僕は心の中で彼女の背中に問いかけた。
 肌を撫でる柔らかい風に吹かれ、僕たちは街路樹が静かに並ぶ色彩豊かな街を歩いた。風邪をひいた日のマルク・シャガールが色付けしたような街。久し振りに一緒に歩く街はいつもより明るく見え、彼女の声は秋の青空のように高く澄んでいた。初めて訪れた街のように路面店を見回す彼女の姿が僕にはたまらなく愛しく、そんなこと出来るわけもないのに彼女の背中を抱き留めたくなり、その時の彼女の表情を思い浮かべ一人笑う。きっとお洒落なバーで二つ隣に座る紳士が、突然シガーをカウンターに放り出しワイングラスを頭に乗せた時のような驚愕の表情をするに違いない。
 そんな僕に秋の空の音が鳴った。
「何してるの、こっちおいでよ。美味しそうなパン屋さんを見つけたの」
美味しそうなパン屋さん。パン屋さんは食べられないよと内心でつぶやき、手を振る彼女の元へ急いだ。
 少し古ぼけた外観の店には焼けたパンの香ばしさが漂い、店の中には陳列棚にはたくさんのパンが並べられていた。パン屋の店主らしき女性と彼女の話す声が聞こえてくる。
「このパンは何て言うんですか?」
「これはプレッツェルと言ってドイツ生まれのパンなのよ。成型方法は独特で、生地を紐状にして腕を組んだように結び合わせるの。小麦粉とイースト、それに塩と水から作られていて、焼く前にラウゲン液に漬けてから焼くの。トッピングは岩塩の粗塩が普通なんだけど、私のおばあちゃんはキャラメルを塗ってくれてたわ。子供の私が食べやすいようにね」
「わぁ美味しそう。それじゃあおばさんはドイツ出身なんですか?」
「そうよ、ドイツ南部のシュバルツバルト地方で生まれて、成人してからこの国へ来たの」
「じゃあおばさんの出身地のパンも紹介してほしいな。そのシュバルツバルトってところのパンありますか?」
太り気味の女性店主は腕まくりをして彼女の注文に応える。
「その言葉を待ってたのよ。シュバルツバルトは黒い森とも言われていてね、パンもその地名を模して作られているから色が独特なのよ。ほら、これよ。シュバルツバルトブロートというパンで焼成直前に生地表面に糖蜜を塗って焼き上げるの。見た目は悪いと思うかもしれないけれど本当に美味しいパンよ。おばさんの故郷の味だからね」
「本当に独特な見た目ですね。でもいい香り」
「でしょ。ちょっと待ってて、あなたとてもいい子だから味見させてあげる。ちょっと切って来るから待っててね」
「切らなくていいよ、おばさん。私大丈夫だから」
すでにカウンターの奥に消えた女性店主の声が、店内に響く。
「心配しなくていいの。あのね、形が悪くて売り物に出来ないのがあったから、それ切るだけだから。待っててよ、お姉ちゃん」
彼女は笑い僕を見る。
「味見させてくれるって。こっちきて、一緒に食べよ」
ナッツの上に焦げる寸前の香ばしいキャラメルを垂らし焼いたパンを眺めていた僕も顔を上げ、彼女に笑って見せる。
「凄い勢いのおばさんだね。僕一人なら飲み込まれてしまいそうだ」
僕が彼女の所へ行き、パンを見ながら話をしていると女性店主は皿を持ってすぐに戻って来た。皿の上には黒い森を模したというパンが二切れ乗っている。
 女性店主は彼女の隣に立つ僕を見て、驚きの表情を見せた。
「あら、二人連れだったのね。こちらは旦那さん?」
女性店主のすっとんきょうな思い違いに彼女は笑った。
「違いますって、彼氏ですよ。まだ同棲してるだけ」
旦那ではないという事実を伝えながらも彼女は僕の手を優しく握ってくれた。きっと傷つきやすい僕が傷つかないように。そして伝えることが苦手な好意を、僕に理解してもらうために。だから僕は彼女のほのかに暖かく薄い手を、少しだけ強めに握り返す。大丈夫、僕はわかっているよ。君が望んでくれるなら僕はずっと君といる。
彼女は小さな口にパンを頬張り、僕にもパンの一切れを差し出す。よく見ると薄く切られたパンにはクリームチーズが塗られていた。白いお皿の上に寂しく乗るパンの姿に、僕は何故か子供の頃何度も遊びに行った祖父母の家の香りを思い出す。秋の夕暮れのなか椅子に座り僕に微笑む祖父母の姿。遠い日の二人の姿と香りに急に涙腺が緩み、僕は泣き出さないようパンを口に放り込んだ。彼女は女性店主を見る。
「うん、これ本当に美味しい。歯ごたえもあってライ麦みたいだけど、小麦粉の香りがする。これにレーズンとか入れても美味しそう」
「レーズン好きだもんね」
うなずく彼女に店主は言う。
「あなた鋭いわね。ドイツパンにはライ麦を使ったものが多いけれど、これは小麦粉を使っているの。フルーツワインと合わせてもいいし、あなたの言う通りこのパンにレーズンやイチジクを入れることもあるわ」
彼女は笑い、僕に視線を向ける。『どう?凄いでしょ』
僕も同じように彼女の目を見る。『君は本当に凄いよ。まるでパンの女神さまだ』
時計が止まって以来の、本当に久しぶりの視線での会話。僕たちだけの得意技でもある。
僕たちが視線だけの会話を交わしていると店主が「お似合いの二人ね」とつぶやいた。
その言葉で視線遊びは中断され、彼女はパンの注文を始めた。
彼女は決して多く食べれる方ではないが、気に入った店を見つけると食べきれないほどの量を選んでしまう癖がある。けれど彼女は全てのものに感謝の気持ちを持てる人だから、余っても絶対に捨てることはせず無理をしてでも食べきるのだ。そしてお腹がパンパンにも拘らず満足した表情を僕に見せる。その表情も僕は好きなのだけれど、彼女には無理をしてほしくはなく、小声で告げる。
「あんまり買いすぎちゃ駄目だよ。君と僕で食べきれる量を見極めないとね」
「わかってるわ」
それでも彼女はお腹の定量にクロワッサン一個分足りないくらいの量を買ってしまった。
最後に彼女が女性店主の故郷のパンをトレイに乗せると、店主は随分と喜び「内緒よ」と僕たち以外に誰もいない店内で人差し指を立て、シュバルツバルトブロートに彼女の好きなレーズンとイチジクを入れて作ってあげるとサービスを申し出て、パンが焼き上がるまで僕たちは少しの間待つことになった。そして女性店主が僕たちに一言。
「イチジクの花言葉は『実りある恋』『子宝に恵まれる』なのよ」
僕たちは顔を赤らめお互いの顔を見た。首をすくめ見つめあう二人の姿は実に滑稽なものに映っただろう。
 店から出て僕たちは噴水がある広場のベンチに座った。僕と彼女の間にはチョコレート一枚分の距離。自ら吹き上げた水で美しい造形を描く噴水の周囲を、風船を持った男の子が一人声を上げて走り、その姿を微笑み見つめる母親の姿。どんなものにも代えがたい幸福で幸せな光景に、僕はまた泣き出しそうになり涙を堪えた。
 どうして僕の感情は高ぶりやすいのだろう。世界一の船乗りでも乗りこなせない感情の波が、僕の胸の内に常に打ち寄せ続けている。
「どうしたの」
僕の意思に反して眼球から溢れだしてくる涙を拭っていると、彼女が不思議そうに声をかけて来た。心配性な彼女に僕は笑顔を見せる。
「なんでもないよ。ちょっと眠たかっただけ」
彼女も僕と同じように笑った。世界中から集めた幸せが僕の隣にある。
僕たちは小鳥が巣から旅立つくらいの短い時間見つめ合った。雲の上から杖を振る神様が与えてくれたかのような幸せな時間。しかし幸せな時間にはイタズラ猫が付いて回る。
「さっきお店の中で泣いていたでしょう」
楽しそうなイタズラ猫の声。
「泣いてないよ」
「嘘。おばさんが出してくれたパンを見て泣いてたわ」
僕は言葉に詰まる。僕は嘘をつくことも苦手なのだ。
「少し涙ぐんだだけ。あのパンがおばあちゃんが作ってくれたパンに何となく似ていたから、昔を思い出しちゃってさ」
彼女は僕から目を離し空を見上げる。彼女の心をそのまま映し出したかのような一点の濁りもない綺麗な空。世界中の人々が心にこんな空を持っていれば、争いなど起きないはずだ。天秤の上に軍事力を載せどちらが偉大かを測りあう国々の寂しさ。何故笑顔の多さでは国力を測れないのだろう。
「子供の頃のあなたも見てみたいな。どんな子だったんだろう。きっと真面目でお行儀のいい子。けど目を離すとイタズラを始めちゃう元気な子なんだろうな」
僕は自分の知る幼き日の僕と、彼女の想像上の子供の時の僕を重ね合わせる。彼女は過去を覗き込める目を持っているのだろうか。微々たる違いこそあれど、彼女が思い浮かべている僕は限りなく僕に近い。
 あえて彼女は言わなかったのかもしれないが、僕は彼女の表現しきれなかった僕を僕として決定づける欠点を口にする。
「そして誰よりも泣き虫なんだ。僕はどんな時でも泣いていた。この癖は涙の神様が僕の心の根幹に住み着いているからなんだ。でも何とかして治さないといけないね。パンを見て涙ぐむなんて駄目だ」
彼女の細く長い指が、僕の指をなぞる様に撫でた。
「それがあなたのいい所なのよ。誰よりも感受性豊かで喜びや幸せを人よりも多く感受できる。その分悲しみも多く受け取ってしまうかもしれないけれど、あなたはきっと乗り越えられる。あなたは強い人だもの」
「僕が強いだなんて実感がまるでないな」
「あなたが強いからこそ、涙の神様はあなたの心にベッドルームを作ったのよ。安心して住むことのできる壊れることのない心にしか涙の神様は住まないの。きっとあなたは神様に認められたのよ」
また言葉に詰まる僕を予測したのか、彼女は言葉が終わるとすぐに袋からパンを取り出した。
「それよりパン食べよ、焼きたてなんだって。ほらまだ温かいよ」
人を困らせることを嫌う心の優しい人。僕なんかにはもったいない。まるで安らぎの園から抜け出した天使のよう。
 僕は彼女が半分に割ってくれたパンを食べる。焼けた生地の中には彼女の大好物のレーズンとナッツがたくさん入っている。彼女にとっては宝箱のようなパンだろう。
至福の味をこぼさないように彼女は口元を抑える。
「これ凄く美味しい。ね、食べてみて」
彼女に言われるままパンを食べると、僕の口の中に香ばしいナッツとレーズンの風味が広がった。そしてメープルの甘い口どけ。
「うん、本当に美味しいね。ソクラテスの哲学のようにバランスが取れている」
「ソクラテス。あなたの尊敬する人ね」
「哲学という人の心理の本質を追い求める学問の基盤を作り上げた人だからね。でも多面的な性格を持ち合わせていたから、彼の思想態度を理解することは難しいんだ。でも着眼点を変えれば多くの見方が出来る哲学的思想からも、未だに彼の足跡を追う人は絶えない」
「私は哲学のことはわからないけれどきっと凄いことなのよね」
「凄いことだよ。そしてこのパンもそれと同じだけの凄さを持っている」
彼女はまた僕の目を見る。彼女の視線から僕は彼女の思いを感じ取った。『このパンは凄いのね。つまりどういうこと?』彼女からの優しい問いかけに僕は口を開き答える。
「幸せの味だよ」
彼女は聞く。
「幸せの味?」
「うん、君と一緒に座って同じパンを食べれるなんて、こんな幸せなことはない」
気のせいかもしれないが僕には彼女の頬が少し赤らんだ気がした。どんなメイクよりも美しい、感情のファンデーションだ。海を照らす熟す前の若々しい夕日。
「私もよ」
短いけれど嬉しさが沸きあがってくる言葉。幸福の樹になる幸せという果実が僕たちの手にポトリと落ちた。きっと胸躍るトロピカルな味。種があれば鉢に植えてみよう。将来僕らの部屋から幸福の樹が世界中に幸せの果実を落とすようになるかもしれない。
 僕が幸せな感情と戯れ目をつぶっていると、「あっ」と彼女が声を出した。
目を開けると噴水の周りを走っていた男の子がつまずき転んでいた。僕と同じ髪の色の男の子の手から手離された風船は、秋の空を目指しゆっくりと上昇していく。風に吹かれながらも健気に上を目指していく風船の行方を追っている僕の耳に、男の子の泣き声が聞こえてきた。悲しみの雲をわしづかみにして振り回すかのような泣き声。
「ああ、可哀想」
母親が駆け寄り、落ち着かせようと頭を撫でられている男の子を見て彼女は心配そうな声を出す。怪我はないようだが、涙をこぼしながら空に昇る風船を見つめる男の子。そして今日という日の宝物を手離してしまった男の子に同調し悲し気な表情を見せる彼女。小さな出来事にも大きく衝撃を受け悲しみの海に浸ってしまうという僕たち共通の不具合。
 僕は一人ベンチから立ち上がった。彼女と男の子、この二人を悲しませたまま何もせずにはいられなかった。僕は問題解決能力の極めて低い人間だ。問題を前にまた宙を仰ぐだけかもしれない。それでもいい、僕に出来ることをすればいい。
「どうしたの?」
驚く彼女に僕は笑いかける。
「ごめんね、ちょっと行ってくる。今日の宝物は飛んでっちゃったけれど、僕がズルしてもう一つのプレゼントをあげる。彼が気に入ってくれるかはわからないけどね」
僕は彼女の太ももに乗っていたパンを包んで皺だらけになった紙を手に取り、噴水から吹きあがる水の陰で泣く男の子の所へ歩いて行く。僕は振り向きはしなかったが、後ろから彼女のフラットシューズの足音が聞こえてきたため彼女もベンチを立ったことが分かり、珍しく僕を追う形になった彼女に見えるように強く背中を張った。大丈夫だよ。きっと僕だって大丈夫。こんな僕にだってできることはある。
両親が教えてくれた言葉、それが今の僕の胸の中で響いていた。『希望を持っている限り人には不可能なんてない。ただ希望を手離したその手にいつの間にか握られているもの、それが不可能だ』
 突然やってきた僕を見て男の子の母親は驚いたようだけれど、後ろからついてきた彼女を見て少し安心したようで、困ったように僕たちに笑いかけた。そんな母親に僕は頭を下げ男の子の前にしゃがみ込む。
 見知らぬ男の顔に空を塞がれ驚いたようだけれど、そのショックが相まってか僕の陰に入り込んだ男の子の涙は止まったように見えた。
「風船、残念だったね。でもきっと空の上にいる誰かが大事にしてくれるよ」
男の子はまた下を向いてしまう。この男の子にとってあの風船は大事なものだったのだろう。当然だ、子供のころ手にするものには全てに好奇心と喜びが詰まっているのだから、それを手離してしまったショックは計り知れない。
「君の風船の変わりにはならないかもしれないけれど、僕からプレゼントをあげるよ。だからもう泣くのは止めよう。下ばかり向いていると喜び泥棒という悪い人がやってきて、君の楽しい気持ちが奪われてしまうよ。だから僕と一緒に上を見よう」
僕の顔を心配そうに見つめる男の子の目。
「お兄さんは喜び泥棒じゃないよね?」
男の子は小さな声でつぶやいた。だから僕は精一杯の笑顔を作る。
「心配しなくていいよ。お兄さんは君の味方だ。だからちょっと見ててね」
「うん」
しゃがんでいた僕は片膝をつき、膝の上でパンを包んでいた厚めの紙を半分に裂き、二枚になったその紙を手早く折っていく。折り紙は僕の子供のころからの得意技で、今では生活の一部にもなってしまっているほどだ。そんな僕の手際の良さに男の子が目を月のように丸くしたのも当然のことかもしれない。
「はい、出来た」
僕は男の子の手に二枚の紙を折り重ねたひし形のプレゼントを置く。オシャレなケースや袋には入っていないけど、僕に出来る全力のプレゼント。
 男の子は不思議そうに僕に聞く。
「これ、何?」
「これはね日本という国に住む、忍者という戦闘集団が使う武器で手裏剣というんだ。忍者はこの手裏剣をフリスピーのように投げて敵を倒す。手裏剣は日本に行かなきゃ買えない貴重品だよ。ほら、こうやって投げてみて」
僕は祖父から教えられた手裏剣を投げる動作をして見せてあげる。もちろんTシャツの襟を鼻の上まで上げて口を隠して。祖父の話では口を見せないのが忍者の正しい作法らしいから。
 男の子は僕の動作を真似て手裏剣を縦にして遠くまで投げた。
それとほぼ同時に男の子は「わぁ~~~」と声を出す。手裏剣は空を切るかのように飛び、コンクリートで舗装された地面に落ちた。たった3秒ほどの空中散歩。
だが男の子はそんな急造品にも満足してくれたようで、手裏剣を拾い満面の笑みで手を振ってくれている。
「お兄ちゃん、ありがとう」
僕も男の子に大きな声を出す。
「喜んでくれたなら良かった。でも噴水の方に投げては駄目だよ。忍者の武器は水には弱いから」
男の子に手裏剣の扱いについての注意喚起をしていた僕に、男の子の母親が声をかけてきた。
「あの、ありがとうございました。あの子なかなか泣き止まないから助かりました」
勝手に変な物を渡したことに不快感を抱かれているかもと、少なからず緊張の糸を張っていた僕は母親の感謝の言葉に胸をなでおろした。
「いえ、僕の方こそ勝手なことをしてしまい、申し訳ございませんでした」
母親は笑って首を振る。
「そんなこと言わないで。それよりあなたが作ってくれた、手裏剣でしたっけ。あれの作り方を私にも教えていただけないかしら。あの子よく物を無くしてしまうし、私も手裏剣をプレゼントして喜ばせてあげたいの」
ここにも心優しい人が一人。彼女やこの母親のような人ばかりの世界なら、僕だって翼を広げ大空を飛べるはずだ。吹く風は透明な青で、見渡す世界は木々の緑。その中を人々がバスケットにパンやフルーツを詰め込み歩いている。平和の色だ。
「いいですよ。二枚の紙を使うから簡単な方ではないけれど、きっとすぐに覚えられますよ」
そして僕は母親の隣に立つ彼女を見る。『もう一度折るけどいいよね?』
彼女はうなずく。『もちろんよ。是非折ってあげて』
僕と彼女の間だけの視線での会話。彼女はバッグから薄い四角のメモ帳を取り出し、二枚を切り取り僕に渡してくれた。でもさすがに噴水の横の地べたで紙を折っていたら不審者に見られるだろうから、僕たちはさっきまで座っていたベンチまで戻り、日本に数多くいるという忍者の武器である手裏剣の製作方法を伝授する。僕が祖父から教わった秘伝の製作法だ。
 そして僕はメモ用紙から折り紙へと存在価値を変えた紙を説明を交え、ゆっくりと折りこんでいく。口下手な僕の説明が男の子の母親にどれだけ伝わっているのかはわからないけれど、僕は僕なりに精一杯丁寧に教える。
なかなか折り方を理解出来ないようだったため、僕は折り終えた手裏剣を何度も開き、男の子の母親が一人でも手裏剣を折れるように教えてあげる。かなり時間が経ったように思えたけど、初めて一人で手裏剣を完成させた時の母親の顔は、僕が手裏剣を渡した時の男の子の顔と同じで、喜びに満ち溢れていた。
だけど男の子よりもその母親よりも一番喜びを感じていたのは僕だったのかもしれない。何の役にも立たないはずだった僕の折り紙で、こんなに喜んでくれる人たちがいたのだ。嬉しくないわけがない。重力に負けず空の果てまで飛んでいく夢の紙飛行機を折り上げた感覚。男の子の母親は僕の手を取る。
「ありがとう、私物覚えが悪いから大変だったでしょうけどもう覚えたわ。今晩帰ったらあの子に作ってあげるの」
「頑張ってください。一度覚えればきっと忘れないから」
「作れなかったら解体してみるわ」と言い、男の子の母親は僕が教え終わるまでに折った手裏剣を全て持って行った。もしまた会うことがあれば笑顔で手裏剣作りに成功したと報告してくれることだろう。
 まだ手裏剣を投げて遊んでいる男の子の所に戻る前に、母親は彼女の耳に顔を寄せた。何か話しているのだろうけど、僕には全然聞こえない。
「今日は本当にありがとう」
最後に男の子の母親は僕たちに手を振り去っていった。手をつないで歩いて行く男の子と母親の姿に、これからもどうか幸せであってほしいと僕は願った。今日という日は二度と戻ってこない、だから今を大切に、と。
 遠ざかっていく二人の姿を黙って見ていた僕に彼女が言う。
「お疲れさま。座ろ」
僕にとっての幸せな時間をくれる彼女。
「うん、そうだね。座ろう」
椅子に座った彼女は、すぐに水筒の蓋を開けそこに水筒の中身を注いだ。コポコポコポ。誰かが自分のために水筒から飲み物を注いでくれる音は、オーケストラの名演と同じだけ胸を打つ。僕の隣で彼女によって奏でられる幸せのハーモニーに、僕はまた泣きそうになった。
僕の胸でバスドラムが鳴っている。
「はい、どうぞ」
水筒の蓋を手渡された僕は彼女に聞く。
「あのお母さん、君に何て言ったの?」
「あなたのこと、『素敵な人ね』って」
蓋の中の液体に映る僕の顔を見ながら口を開く。
「信じられないな」
「私はあのお母さんの言う通りだと思うわ。あなたは素敵な人よ」
ためらうことなく僕のことを素敵だと言ってくれる彼女。恥ずかしくなった僕は話を逸らすため、また質問をする。
「これは何を入れてくれたの?」
「大丈夫。心配しないで飲んでみて」
僕は蓋の中を三分の二程満たしている液体を飲んだ。心の底から優しい彼女が言うのだから飲んでも間違いはない。
「あっ、これ」
僕は短く声を出し、また蓋に口を付ける。僕の口の中に流れ込んで来る良く冷えた液体には洋梨とジンジャーの味がして、その二つの味を支えるようにレモンの風味。僕の大好物だ。
「洋梨のジンジャーエール」
何も言わず彼女は笑ったままうなずいた。
「僕がこれ好きなこと知ってたの?」
「うん」
「でも言ったことないよ」
「前に二人でアロマショップに行ったでしょ。ほら、プルメリアとハイビスカスのアロマオイルを切らした時に。そのお店にいろんなジンジャーエールのボトルが置いてあって、あなたアロマオイルを探しもしないで、ずっと洋梨のジンジャーエールのボトル見てたから、『あっ、きっと洋梨好きなんだな』って」
「バレてたんだ」
彼女の顔にまたイタズラ猫が表れた。近づくと飛びつかれそうな危うさと愛しさを持つ表情。
「バレてたのよ」
また僕たちに向かい柔らかな風が吹いた。僕のミスを全て拭い去ってくれるかのような透明な肌触りの風。
「そっか、そういうところも治していかなくちゃ駄目だね。もっとしっかりしないと」
洋梨のジンジャーエールを飲む僕を彼女は見つめている。嬉しさと同時にくすぐったさを感じる視線。
「何?」
「さっきは格好良かったよ」
僕は彼女の顔から視線を少し下げ、白い首を見る。
「そうかな」
「あなたは変わりたいと思っているんだろうけれど、そのままでいいのよ。あなたはあなたのままが一番いい」
「でも君の言う通り折り紙ばかりしていても仕方ないから、怖がってばかりいないで社会に足を踏み出さなくちゃ」
青い空を見上げる僕の耳に、彼女のジャコビニア色を思わせる優しい声が届く。ピンク色の花束だ。
「社会に出るということは、働きお金を稼ぐだけではないんじゃない。あなたは素敵なプレゼントであの親子に笑顔を咲かせてあげた。人の助けになり、人を笑顔にさせてあげる。あなたが今したことだって立派な社会活動だわ。周りの声に惑わされないで。あなたにはあなたの生き方がある。あなたは幸せのアロマフューザーのような人だから、いつでもどこにいても人を笑顔に出来る。それでいいじゃない。社会が作ったまとも人間像の型枠になんか入らなくたっていい。あなたの思うように生きて、あなたが出来ることを頑張ればいいの」
彼女からのありがたい言葉に僕は感謝の気持ちと一つの疑念を返す。
「ありがとう。でも話をぶり返すようだけどお昼前の君は、折り紙ばかりやってる僕に怒ってたよね」
イタズラ猫は少し困った表情を見せる。彼女に厳しいことを言ってしまっただろうか。急に謝りたい気持ちが沸いてきたが、彼女は微笑んだまま僕の頬を軽くつねった。
「いいじゃない。さっきは少しビターな気持ちだったの。でももう大丈夫、今日あなたとお散歩して気づいたから」
「何に気づいたの?」
彼女は僕の顔を正面から見て笑顔で一瞬目を大きく広げた。幸せの湖のように綺麗な瞳。
いま彼女が何と言ったのか伝わり、心の中の僕は大きく跳ねた。
 僕たちの間でおなじみの視線のキャッチボール。いつからか、僕たちは言葉など使わなくても気持ちが通じ合うようになった。僕は彼女の言葉を受け取り、何を言いたいのか理解する。きっと彼女の意思通りの言葉を僕は受け取ったはずだ。だからこそ言える。
「こんな僕でいいんだね?」
「そんなあなただからいいのよ」
細い手が僕の背中を撫でた。
「ありがとう」
「ついていくわ。どこまでも」
チョコレート一枚分の距離を開け寄り添う僕たち。この距離が縮まる日もそう遠くないはずだ。穏やかな風に揺れる彼女の髪の毛が僕の肩に触れる。フェンネルと一吹きだけした香水の香り。僕は彼女の優しい香りを吸い込み、口を開いた。
「なんか今日なら新しいスタートを切れそうだ。帰りに電池を買って行こう」
彼女は首をかしげる。大好きな愛しの仕草。
「電池?」
「まずは部屋の時計を動かすんだ。僕たちが動き出すんだから、あいつも一緒に動かしてやらなくちゃ。あのカチカチと刻む秒針の音も、今じゃ無いと寂しいし」
「うん。そうだね、ずっと私たちの時間を刻んできた時計だもんね。電池を取り換えるついでにしっかり拭いてあげよう」
「ホコリの毛布をかぶってるからね」
フレグランスショップの店先からフランス・ニースのバラを使った香水の香りが風に乗り、僕たちを包んだ。硝子細工のように綺麗な二人だけの時間。僕にはカチカチという秒針の音が聞こえた気がした。
「ホントにいいスタートが切れそう」
「うん、本当に」
バラの香りがまた一吹き。彼女はベンチに手を付き首と足を延ばしている。
「こんな時間が、毎日が続けばいいなぁ」
「大丈夫。きっと続くよ。続けていこう」
僕は立ち上がり彼女の手を引く。
「行こう」
足をそろえ彼女は立ち上がった。。
肌を柔らかな風が撫でる中、チョコレートの距離で僕たちは互いの目を見る。
『僕に付いて来て』
『うん、どこまでも』
カチカチ 秒針の刻む音がまた鳴った。

                        芝本丈


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2017年8月25日金曜日

カバンにフラペチーノを

今日は読み物を一つ。
今回は美術品は使わずに、過去の偉人を登場人物にしました。
天才物理学者のアインシュタインと哲学者のデカルトです。
どうぞお楽しみください。





12月の明かりが照らすけやき坂のスタバの中、白い頭髪と白い髭を生やした男が、ふて腐れた様子でテーブルに戻って来た。彼の手には緑色の女性が描かれたカップが二つ。
「僕が君の分まで運んでくる理由がわからない」
デカルトは当然のことのように答える。
「私の方が先に何を飲むのか決定し、先に注文を終えた。カウンター前には多くの人が並び、少しでもスペースが空くのを待ち望んでいるようだった。どうやらこの街の人々は異文化の人間にだいぶ慣れてはいるようだが、それでも注文を終えた男が優雅にカウンター前に立ち尽くしていては腹も立つだろう。そのため私は君に整理券を託し、社会通念から外れない限り何をしていても許されるこの席に座ったんだ。それがあの場で私のとれる最善の策だった。まだ疑念はあるかね?」
「いいや、ないよ。もういい」
「それなら良かった。さぁ、君も座りなさい」
アインシュタインは椅子に座り、不快そうに顔をしかめる。
「まだ何か私の行動に不満があるのかな?」
「それは今の君の説明ですでに解決しているよ」
「では何故にそんな顔を?」
まるで我が家にいるかのように長い髪を手で梳かすデカルトに、アインシュタインは気弱な視線を向ける。
「この椅子、暖かいよ。きっとさっきまで誰かが座っていたんだ」
「それはそうだろう。これだけの人がいる店内で、この椅子にだけ誰も腰を落ち着けないと君は考えているのかね?空の上の誰かが、そんな小さなイタズラ心を働かせるとでも?」
アインシュタインは覚悟を決めたように椅子を引き寄せ、声を潜める。
「そんなことを言ってるんじゃない。誰かが去った後の椅子に座ることくらい気持ち悪いことは無いじゃないか。見知らぬ人と肌を合わせているような、そんな気さえしてくる」
彼の嫌悪感に対するいくつかの言葉が浮かんだが、それを飲み込みデカルトはただ笑っている。
「君は不快じゃないのか」
「気持ちのいいものではないかもしれないが、別に気にはならないな。人の数が多ければそれだけ人と接する機会も増える。それだけのことだ。そんなことで老いた顔を更に歪ませる君は、よほど自由に生きてきたのだろうな」
「座り心地の悪い椅子では数のパズルを解くことは出来ない」
「まぁ、それに関してはわからなくはない。私も数学に興じる種の人間であるから、君の気持ちも理解できる。自分に適した机と椅子があってこそ数学は楽しめ親しみを感じる」
言葉を終えデカルトはストローに口を近づける。この店を紹介してくれたアインシュタインのお気に入りだという、フラペチーノという飲み物。彼は何度もダークモカチップフラペチーノを頼むべきだとデカルトを促したが、注文を待つ列に並ぶ間に女性客がカウンターで不思議な色の飲み物を受け取るのを目にし、何かに引かれるようにデカルトも女性客と同じものを注文した。それがキャラメルフラペチーノ。飲食物の色彩的には中の下のような気もするが、落ち着ける場所のないこの世界で、心満たされる風味に出会うことに期待を寄せていた。良き飲食物と出会いは良き生活の出会いに等しい。だが唇がストローに触れるや否や、向かいに座る男の声が飛ぶ。
「あぁ、駄目駄目。デカルト君、それじゃ駄目だよ。君はスターバックスのフラペチーノの嗜み方をまるでわかっていやしない」
飲食の行為に入る直前で動きを止められることほど嫌なことは無い。デカルトの声は思わず大きくなる。
「君が何を言っているのか私にはまるで分らない。これは飲料なんだ。ストローまでしっかりと添えられた飲み物だ。それをストローから吸い出し口に運ぶことは間違いだというのかね?」
小さなテーブルにアインシュタインは身を乗り出し、周囲の陽気な客たちに聞こえないよう小声で話す。
「デカルト君、君は賢い人だ。だから人にあれこれと指図されるのは嫌かもしれない。それもストローで飲み物を吸い出すという、ごくごく簡単な動作についての口出しは非常に癇に障ることだろう。だけれど僕は人の間違った行動を黙って見過ごすことは出来ないんだ。ここの飲み物には最善の味わい方があるんだよ」
勝気なデカルトは湖面を揺らすように小さく笑う。
「面白いな。物理学以外でこれほど熱くなるなど君にしては珍しい。君の熱に免じてここは大人しく聞くことにしようか」
「それがいい。この世界に来てまだ短い君は、僕の言葉を信じるべきだ」
ふて腐れていたアインシュタインは急ににこやかになり、カバンの中を漁り始める。彼は整理整頓が苦手なのか、カバンの中という狭い世界ですらなかなか探し物は見つからないようだった。だがそれは仕方のない事。人は答えを探し出そうとすると必ず視野は狭くなる。ならば探し物も同様だろう。探すほど目当てのものは遠ざかっていくのだ。
 窓の外の青い光の中歩く人々を眺めていると、アインシュタインが子供のような声を上げた。
「あっ、あったよ。あったあった、やっと見つけた」
ようやく探し物を終えた彼の手にあるのは、日に焼けて古びたメモ帳だった。彼はそれをテーブルに置き、皺だらけの手でめくり始めた。
「忘れないようにここに書いておいたんだ」
「何をだね?」
「フラペチーノの嗜み方さ」
ため息をつくデカルトにアインシュタインは言う。
「僕のやり方をよく見ているといい」
「やり方ねぇ」
「そう、物理学に崩しようもない定理が存在するように、スターバックスのフラペチーノの飲み方にも定理が存在するんだ。ただスターバックスには愛好者が多いから、嗜み方の定理もいくつか存在し論戦は続けられているらしい」
「そんなことで論戦が?とても信じられないな」
「それだけフラペチーノは奥が深いのさ。フラペチーノの嗜み方で国交を断絶する国だってあるかもしれない。『君達は大きな間違いを犯している、我々の飲み方はこうだ!』とね」
会話を続けながらもアインシュタインはすぐにカップの上部に付けられていた半円形のフタを取り外し、ストローを袋から取り出した。
「なるほど、上に乗るクリームのようなものを酸素に触れさせるのだな。酸素によりクリームに大きな変化が起き、良質な味に変化すると」
「違う違う、答えを急ぎ過ぎてはいけない。腰を椅子に沈めゆっくりと問題に向かい合ってこそ、答えの神髄を導き出すことが出来るんだ」
アインシュタインは自慢気な表情でストローを使い、彼の注文したダークモカチップフラペチーノの上に乗るクリームを崩していく。一見下品にも見える行動だが、周囲の客たちに彼を嘲笑う様子はないことから、スターバックではこれはありふれた行為なのだとデカルトは納得し、彼の動きを真似て半分アイス上のクリームを崩し始める。だがそれも彼にとっては見過ごせない行為だったようだ。
「ちょっと待って」
アインシュタインの声にデカルトは手を止めた。デカルトのカップの中には晩年を迎えた老人の背中のように、崩れかけたクリームの山が一つ。溢れんばかりの哀愁が漂っている。
「今度は何だね」
「何だねなんて気取っている場合じゃないよ。君は今クリームを全て崩そうとしていた。だがそれはしてはいけない行為なんだ。君だって平地からどこまでも見渡せる人生など望んではいないだろう」
目の前に座る男が何を言っているのか理解できず、頭の上に今にも降りだしそうな灰色の雲が浮かんだ。フラペチーノ愛好者の老人は説明を続ける。
「哲学の世界で太く生きた君に人生を語ることは躊躇してしまうけど勘弁してほしい。平地を歩くような人生は安全だが、楽しみには巡り合えない。山や谷があってこその人生なんだ。山頂に辿り着き大地を眺める時の爽快な気持ち、谷から這い上がり陽の光を体中に浴びた時の澄んだ気持ち、それに誰も解けなかった物理史上の難題を説いた時の晴れ晴れしい気持ちと…」
言い淀んだアインシュタインの言葉にデカルトは続ける。
「頭を悩ませる相手がいなくなったことの物悲しさ」
「それだ」
アインシュタインは両手を広げ、自分の気持ちを素早く読み取った事への賞賛のポーズを見せる。
「山や谷があってこそ濃密で濃厚な人生が楽しめるんだ。喜びや悲しみを味わい生きていく。それが人生だろう」
アインシュタインのつたないが熱を持った言葉に、デカルトの心は緩みをみせていた。天才的な発想力と頭脳を持ったがゆえに不器用に生きた老人の明るい顔に、扉はきしむ。
「つまり君の言いたいことは、このスターバックスという洒落た店のフラペチーノという飲み物には、人生と同じだけの楽しみがあるという事かな」
「そうさ、そしてフラペチーノには人生の傍らに置いておくだけの価値がある。疲れた時や迷いがある時にお気に入りの椅子に座り、何度も読み返した文庫本を開きフラペチーノを飲む。それだけで人生は楽しくなるのさ」
哲学に対しそれほど深い見識を持たない彼には人生とフラペチーノの対比、いや、人生におけるフラペチーノの必要性を語ることは大変だったらしく、彼は大好物だという灰色のフラペチーノを吸う。
「ああ、本当に美味しいよ。ダークモカチップフラペチーノには美味しいという表現が一番合うな」
皺だらけの顔をほころばせアインシュタインは幸せそうに微笑んだ。人の表情を飾る博物館があるなら『幸せな時の表情』の標本には間違いなく今の彼の顔が使われるだろう。
可愛らしくさえ思える笑みを浮かべるアインシュタインの背中を、デカルトはそっと押す。
「では素晴らしいという表現はどうだろう?素晴らしいフラペチーノ」
フラペチーノ愛好者の老人は、物理を紐解く銀色の錆びた鍵を見つけたかのように手を叩く。
「その表現もいいね。だけれど『素晴らしい人生に素晴らしいフラペチーノ』よりは『素晴らしい人生に美味しいカプチーノ』の方が文学的に具合がいいと思うんだ。だから素晴らしいフラペチーノという表現はいつでも取り出せるように机の一番上の引き出しにしまい、美味しいフラペチーノという表現を使わせてもらってるんだ」
「君が文学的な視野を持つとは知らなかったな」
「数と真摯に向き合うには物理学的視点だけでは物足りない。必要ではないと思われる視点も取り入れてこそ数とわかりあえるんだ」
アインシュタインは笑みを浮かべたままデカルトのカップを見る、
「話し込んでいるうちにそろそろ頃合いだ。二回転と半分ストローを回しフラペチーノをかき混ぜるんだ。おっと、上に残ったクリームまで混ぜてはいけないよ。残りはゆっくりと崩しながら飲むのだから」
「それがスターバックスのフラペチーノの飲み方に対する、公式の見解なのかな?」
「公式な見解ではないよ。ただスターバックス愛好者たちの半数が押すフラペチーノの嗜みに、私が筆先で色付けした飲み方なんだ。大抵はクリームを全部崩し、ストローで強引に混ぜ込み飲んでしまうのだがね、私はまずクリームを半分崩し数分待つんだ。この数分がキモでね、注文したカップのサイズや店内の室温により適切な判断が必要となってくる。見極めが肝心なんだ。二分でいい時もあれば四分待たなければならない時もあるからね。そして時間がきたらストローでフラペチーノを二回りと半回転する」
デカルトは首を振る。
「本当に君はどうかしているな」
「よし、しっかり回したね。それじゃあ飲んでみて」
子供のように急かすアインシュタインに苦笑いを浮かべ、デカルトはストローに口を付ける。クリームと氷によって柔らかさを持った液体から甘いキャラメルの風味が口中に広がった。決して甘すぎることもなくキャラメルの潜在能力を余すことなく引き出した極めて優秀な飲み物に、デカルトは目を閉じる。
「どうだね?」
何故か自慢げな声を出すアインシュタインに、デカルトは瞼を開けうなずきかけた。
「君の言う通りだったよ。人類の英知が生み出した甘美な飲料が私の口内で踊り、鮮やかな羽を広げた。これは現代社会を生きていくには欠かせないのも物なのだろうな。人生を歩くのにフラペチーノは必要不可欠だ」
アインシュタインは今日一番大きな笑顔を見せる。入道雲が優雅に泳ぐ青空の下、草原の中を駆け回る少年のような透き通る清い笑顔。
「そうだろう。そうなんだよ、フラペチーノは常に僕らの傍らになければならないほどのものなんだ」
「本当に美味しいな。こんな飲み物があるなんて驚きだ」
「キャラメルフラペチーノでさえそれだけの味わいなんだ。私が頼んだダークモカチップフラペチーノなら、更に君を驚かせたことだろう。コーヒーとダークチョコレート、それにチョコレートチップとミルクが折り重なりあい、口の中で舞うかのような共演を見せてくれるのさ」
デカルトはもう一度キャラメルフラペチーノを飲み、顔を上げる。
「次にここに来たときは、君のオススメを頼んでみることにしよう。このキャラメルフラペチーノも捨てがたいがね」
「是非そうするべきだ。そして何度もスターバックスに通い、一番自分の人生に適したフラペチーノを選び抜き、そしてそのフラペチーノをカバンに入れ生きていくんだ」
「カバンに入れっぱなしにしていれば温くなってしまうし、そもそもこぼれてしまいカバンの中がベショベショになってしまうじゃないか」
斜めに顔を傾け、アインシュタインは片目を広げる。何とも皮肉な顔だが、彼の表情に嫌悪感を抱かせるものはなかった。大事な友人の得意げな顔。
「君は理屈に絡め取られているようだ。それではダメだよ。理屈の檻の中に居ては自由な発想など出来やしない。人生で常に携えるカバンに不可能などないよ。すべてを諦め光を失わない限り、いつでも冷えて美味しいフラペチーノを取り出せるんだ」
「それなら君はいつでもフラペチーノを楽しむことが出来るな」
隣の席に座る女性客たちが二人のフラペチーノ談議に笑う中、満足そうにダークモカチップフラペチーノを味わうアインシュタイン。
「デカルト君だって同じだよ。我々は生きている限りいつだってこの味を堪能できるんだ。一人ででもいいし、今日のように友人を連れてでもいい。穏やかな空気を吸い、フラペチーノが飲める。他に何が無くてもそれだけで十分に幸福じゃないか」
「物理が無くてもいいのかな?」
忘れ物に気づいたようにアインシュタインは目を開く。
「それは重大な問題だ。物理も加えておこう」
開かれたメモ帳にペンを走らせる彼の姿に、デカルトはつぶやく。
「君は生きているんだな、この世界を」
「そりゃあ生きているさ。心臓が動いていることが何よりの生の証明だろう。物理学の定理と同じだ。人の鼓動があるということは生きている証だ」
デカルトは下を向き、少なくなったキャラメルフラペチーノをストローでつつく。
「それは私も同じだよ。だけど君はこんなに素晴らしく美味しい飲み物を見つけたり、とにかく行動的だ。この世界に順応しようとせずとも、見事にこの世界に足をつけて生きている。それに比べ私はまだ馴染めずに凝り固まっているんだ。ここに私の居場所などない気がしてね。どうすれば君のように生きられるのか」
二本の揃えた指でこめかみをかき、アインシュタインは不思議な事を言う。
「まだ人類は宇宙の果てを観測すらできていない」
「どういう事かな?」
「ここまで文明が発展しても、世界は謎だらけなんだよ。私は謎を解き明かすことが大好きだからね、それが難問であればあるほど楽しみは沸く。デカルト君、私はこの世界でフラペチーノを机に置き難問に挑むことが楽しみで仕方ないんだよ」
デカルトの曇り空に薄日を差し込もうとするアインシュタイン。
「それならば私にできることも何かあるのだろうか」
「あるさ。この世界の人々は悩みを持つ人がとにかく多いから、デカルト君の力で救ってやることも出来るし、数学的にも結果を残してきた君の力はきっと私の謎解きにも役に立つ。だから手伝ってくれるというなら歓迎するよ。けれどそれでも足りないというなら、自分のすべきことを見つければいい。居場所がないなら自分で作ってやればいいんだ。本を読んでもいいし、映画を見てもいい。それに今はインターネットという世界中と繋がれる便利なものがあるから、そこから居場所を探してもいい。知ってる?インターネット?」
デカルトは恥ずかしげに笑う。
「知ってるさ。使う度にインターネットの利便性に驚かされ、昨日は部屋にwi-fiまで繋いでしまったよ」
「なんだ、やるじゃないか。私も最近インターネットでブログというのを始めたんだ。簡単に説明すればインターネット上に誰でも訪れることが出来る部屋を作れるんだ。コーヒーや食事で客人をもてなすことは出来ないが、記事を書きそれを読ませることで満足してもらうんだ」
デカルトはカップから手を離し、口元に手を当てる。
「それは凄いな。自分の部屋を作れるのか。それで君の部屋にも客人は訪れているのかね?」
「先週かな、アクセス数がやっと300を超えたんだ」
「300。凄いじゃないか、君の部屋に300人が訪れたという事だろう」
目の前に座る男は何故か頬を赤らめ、気まずそうに笑っている。
「そう思うだろう?」
「違うのかい?」
「インターネットとは本当に便利なものでねアクセス解析ということが出来るんだ。それで調べてみると、300を超えるアクセスは全て私のものだった。自分のブログを確かめようと何度も訪れていたからね」
デカルトは呆れ、天井を見上げる顔に手のひらを置く。
「酷い話だな。君は天才的な頭脳を持っているのに、そういうどこか抜けたところを持っている。それゆえ人から愛されるのかもしれないがね」
アインシュタインはダークモカチップフラペチーノのカップを一気に開けた。
「美味しかった。もう飲んでしまったよ」
「私もだ。君の言う通りフラペチーノという飲み物は最高だった」
「ダークモカチップフラペチーノなら君の喜びはもっと大きかったはずだがね」
「それはわかったから」
アインシュタインは口をつぐみ、デカルトはいつの間にか客数の減った店内を見渡す。
閑散とした店内に息苦しさはないが、かえって寂しさが目立つ。椅子に座る残された客たちの姿が、デカルトの目には帰り道を失った赤とんぼに見えた。彼らはこれから夜の都会の明かりに迷わず家に辿り着くことが出来るのだろうか。そして客たちの姿に自分を重ね合わせ、デカルトは不安の雲を背負う。
「これからどうする、もう遅いし帰ろうか?」
寂しさを感じたデカルトは帰ることを促したが、アインシュタインの返答は早かった。
「映画でも見に行こうよ」
「映画?」
「さっきも言っただろ、この世界での楽しみの一つさ。みんなで大きな画面の前に座り、映像に一喜一憂し胸を高鳴らせるんだ。これだって大事な人生の楽しみさ。映画を見ることは人生の蔵書を増やすきっかけにもなるしね」
帰ることを望んではいたが、友人の一言にデカルトは顔をほころばせる。
「映画か、それもいいかもしれないな」
「よし、行こう」
友人は勢いよく立ち上がり、デカルトもそれに続き席を立つ。
店の扉を開けると、街路樹が青い光でライトアップされ、それは天の川のように坂の上まで続いていた。立ち並ぶ高層ビルの下、青い光を放つ街路樹を見つめているとアインシュタインの震える声が耳に届く。
「なにやってるんだ、デカルト君。こんな所に居たら凍えてしまう。今からでも急げば上映時間に間に合うから、早く行こう」
振り返ると老いた友人は、震えながら白い息を手に吹きかけていた
「ああ、映画を見に行くんだったね。それで私達が見るのはどんな映画なのかな?」
寒さで顔を青ざめた友人はニヤリと笑う。
「スターウォーズ、人類が宇宙で戦いを繰り広げる映画さ。君は驚くぞ。映像の美しさはもちろんの事だが、我々の子孫が考えた突拍子もない発想にね」
「私にはついて行けそうにない映画のようだ」
「最高の人生の見つけ方やダヴィンチコードなどいくつか候補はあったんだけど、どれも古い映画のようで上映はされていないようだった。でも良かったよ、スターウォーズの最新版はまだ上映されているみたいだ」
デカルトも声を出す。
「私はスターウォーズという宇宙での人類の戦いの映画より、ダヴィンチコードという映画が見たかったなぁ」
口から出た白い吐息はけやき坂の冷気に紛れ、すぐに消えた。
「君は今日スターウォーズを見るべきなんだ。スターウォーズを見てこの世界を楽しむ活力をもらおうじゃないか。さぁ、行こう」
冷たい外気に身を震わせ、二人は歩き始めた。
「私はダヴィンチコードが見たかった」
「いや、デカルト君は理屈っぽいからダヴィンチコードは駄目」
「ヒドい言われようだ」
「すねてる暇はないよ。そんな暇があるなら楽しんで笑わなければ時間がもったいない。映画館へ急ごう。スターウォーズとキャラメルポップコーンが我々を待っている」
「キャラメルポップコーン?」
「そう、キャラメル好きの君はまたきっと驚くことになるだろう」
ゆったりと流れる車の列を横目に、デカルトは笑った。
「君といると眠る暇もなさそうだな」
「寝る間も惜しんで楽しみ笑う。それが人生の醍醐味さ」
楽しみ笑う彼らのカバンには一杯のフラペチーノ。
青い光に照らされ二人の背中は遠ざかっていく。この世界での居場所を見つけるために。
 足取り軽く映画館へ向かう二人の上、街路樹に粉雪が舞った。


最後までお読みいただきありがとうございました。

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2017年8月16日水曜日

仮面に吹く風

 本日は読み物を一つ。
また絵画を使わせていただいた作品です。
使用したのはヴェッファ作『青い背景の道化師』とカシニョール作『夕べ』、ピーテル・ブリューゲル作『バベルの塔』 そして前の作品で使わせてもらったフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』です。





 この作品は短いのですが多くの部分で悩んだ作品でもあります。そして作品構成を考える上で一つのルールも作りました。そしてたった一言を入れるか入れないかで二日悩んだ部分もあります。それらを明かした上で読んでいただきたいとも思うのですが、しかしそれを読む前に作者から開かされてもつまらないでしょうから、あえてここでは伏せておきます。
 私の作品を待ち望んでいてくれている人の存在も知り、急ごしらえで作った作品ですがなんとか形になりました。
 是非お読みいただき楽しんでいただけたらと思います。
コメントいただけたら幸いです。


      ・仮面に吹く風

「綺麗な風ね」
バベルの塔から吹く風が、大きな帽子で半分ほど隠れた女の髪を微かに揺らした。
強い風により繊細に揺れる女の髪を道化師はただ見ていた。
「ここがあなたのお気に入りの場所なのね」
「気に入ってはいないよ。ただあの塔を眺めるんだ。それが日常なんだ」
風は収まり、美しく揺れていた髪留めからこぼれた数本の黒い髪は、女の首筋をなぞるようにしなだれた。
 女が涼やかに眺める柵の外側には人間たちが神に少しでも近づこうと建設し、それゆえに神の怒りを買ったとされるバベルの塔が荘厳な姿で大地に腰を下ろしている。
道化師の父は宗教に没頭するタイプの人間であり、バベルの塔が持つ意味合いを幾度となく息子に教授したが、目の前の塔は道化師にとって人が人であることを認識するために作り上げた、壮大で美しく、それでいて空虚な塔に過ぎなかった。人間は神に近づこうとしてこの空っぽの塔を作り、いくら背伸びをしても人間は人間から抜け出せない事を知ったのだから。
「君にはバベルの塔がどう見える?」
女は少し考え口を開く。
「私とあなたは全く違う人間よ」
塔に対する意見を求められた女はこちらを見もせず、自分は道化師ではなくまともな人間だと主張し、言葉を続ける。
「あの塔は私達と同じ」
再び吹いた風に乗り、微かにフルーツの香りをまとった女の不思議な言葉が青の背景を持つ男に届いた。
「あれだけ大きな形で在りながら、あの塔は一人ぼっち。きっとあの塔が世界の真ん中にあったとしても、それは変わらないわ。世界の真ん中という隅に居場所を見つけてしまう塔」
「世界の真ん中の隅か。そこからは何が見えるんだろうね」
女の足が二度地面を蹴った。
「ここと同じよ。青い空を眺めることが出来るわ」
「その青い空はどんな表情をしているのだろう」
落下防止用の柵に手を置き、背を伸ばす女。その背中は心配になるほど華奢だ。
「世界の隅にいるんだもの。そこの空はのどかで穏やかに決まってるわ。その青い空を飛ぶ鳥たちが自由気ままに線を引くのよ。豊かな生命の証」
「ここの空は?」
「青色だけど穏やかではないわ。欲望が滲み出てる」
男は前を向いたままの女に一歩踏み寄る。その気配を察したのか、女は大きな帽子をさらに深くかぶった。その様は10月の末日に黒猫とカボチャのお化けを引き連れる魔女を思わせた。目を細め男は言う。
「人は自分の生み出した欲望に簡単に操られる。自分の器には到底収まりきらないほど大きなものを望み、空を汚し、命を奪う」
「どこまで行っても欲望に塗れたままか。つまらない人生ね」
「それが人間だろう」
帽子の魔女は気の向くままに振り返った。大きな帽子の影となり表情は確認できなかったが、整った輪郭と口元、鼻先、白い肌からこの女性は強い美を兼ね備えていることを男は感じた。触れたくなる美に心を落ち着かせ、静かな湖面に一滴の雫を落とす。
「目の前に太く座るバベルの塔だってそうさ。人間たちが神に近づこうという欲望を持ち、あそこまで築き上げ、それにより神の怒りを買い言葉を乱された。私達が使っているこの言葉すら、世界中に散らばった多くの人間達には理解できないんだ。憐れで笑えてさえくるよ。結果、神を目指した人間たちは、自分の思いすら満足に伝えることが出来なくなった」
女の唇の両端がゆっくりと上にあげられた。どうやら女は笑ったようだ。
「あなたもその愚かな人じゃなくて?」
「私は違う」
「あら、どこが?」
男は視線を強め笑って見せる。全てを悟ったかのような道化師の不敵な笑み
「見ればわかるだろう。私は道化師であり人ではない」
女は手に下げたバッグから小さな瓶を取り出し、その中の色とりどりの乾燥した果物の中から乾いたオレンジを取り出し尖らせた唇でつまんだ。生き生きとした薄い唇で渇いたオレンジを上下に動かす様は、南国の大樹から熟した果物をついばむ鳥を思わせた。世界中を飛び回ることが出来るのに、世界で起きている問題など目にも留めない優雅な化鳥。
 緩やかな風が一つと半分吹く間だけ女は口先でオレンジをもてあそび、生命の循環を補わせるためか、もしくは乾いた果物の味を楽しむためか、口内に放り込み喉に通した。
「あなたは人間よ」
バベルの塔から吹く風に、今度はオレンジの影が感じられた。
「よく見なさい。私のどこが人間だというのか」
「先から先まで。あなたには羨ましくなるだけの人間らしさが溢れているわ」
女は笑い言葉を続ける。
「おかしなメイクをして、禍々しい背景をぶら下げてはいるけれどね」
「それこそが私が道化師である証明なんだ」
女は再びバベルの塔に向き直り、黒く大きな帽子を上げた。
「綺麗な空気ね」
世界の果てまで広がる青空の一部になったかのような女の背中に男はうなずく。目の前の青空とは違う、禍々しい青の背景を背負ったまま。
「少し歩かない?」
「何故?」
「理由なんてないわ。あなたがここに立つ理由は?」
「特にないな」
「じゃあ歩きましょう」
振り返った女は初めて確かな笑顔を見せた。夕暮れが迫る空のような少し寂しげな笑顔。
返事も聞かずに歩き出した女の後を男は追う。一人佇みバベルの塔を見下ろすことは、今日の道化師には憐れな行為に思えた。そう、神に近づこうと決死の思いでバベルの塔を建てた人間達と同じ憐れな行為。
 草を強く踏み、追いついた背中に男は声をかける。
「君はいつもこうなのか」
「こうって?」
「君を怒らせてしまうかもしれないが、君は自分勝手だ。いや、この言葉は適切ではないな」
男は防止の丸い影を踏める距離で速度を落とした。女と並ぶよりは賢い選択と男は自身を納得させる。
「自由奔放だ。あるがままに生きている」
「そうやって生きるのが人間なのよ」
「ならば君の行動は私には理解できないはずだ」
草の上に転がる小石を、細く長い足で女は空に飛ばす。憐れな小石。多くの石の中に埋もれていれば蹴り飛ばされる必要などなかったろうに、緑の布団の上で一人日向ぼっこなどしているから意味もなく宙を舞う羽目になったのだ。
 何の気なしに女に蹴り上げられた小石はすぐに速度を失い、バベルの塔が仰々しく座る柵の外側に落ちて行った。自分と似た小石の行先を目で追っていると、いつの間にか女は立ち止まっていた。
「あなたは道化師だから?」
「そうだ。人間の事は道化師にはわからない」
整った美しい顔を、女はわずかに横に傾けた。
「何故あなたはその道を選んだのかしら」
「私にもわかるように言ってくれないか?」
「何故、道化師になったの?」
道の先に広がる木々の通路から緑色の香りが漂い、男はそれを小さく吸う。
「おかしなことを聞くね。君が人間であることと同じだよ。私は道化師だから道化師として存在しているんだ」
「道化師だって元は人間でしょう。この世に導かれた瞬間から道化師なんてことはあり得ないわ。どんなに賢い猿にだってあなたのように道化を演じることは出来ない。人間しか道化師にはなれないのよ」
道化師が黙ったままいると、帽子の女は言葉を続けた。
「どんなに演じることが上手い道化師でも一枚皮をはがせば中身は人間よ。あなただってそうでしょう」
「違うよ、私はただの道化師だ」
「あなたは賢い人だもの。自分が何者であるか気づかないわけがないわ」
「私に賢さなどないし、それを持つ必要もない」
女は呆れたように大きく首を回した。
「真っ白なカフェの中であなたは私に語ってくれたじゃない。バベルの塔についてあなたのお父様から聞いた話に、自分の見解を織り交ぜて切々と。あなたの話は面白かったし、それに美しさもあったわ。私はあなたの大きなバスケットから溢れ出るほどの知識に魅せられたのよ」
道化師日は顔を上げ空を見る。
「あの時の君はふて腐れたようにさえ見えたから、私の話は君にとってよほどつまらないものなのだと思っていた」
「つまらないのなら、あなたと一緒に塔を見になんか来ないわ。あれはあなたと話をする前に数人のつまらない男達から声をかけられて、うんざりしてその流れを引きずっていただけ」
「私との対話時にまでその流れを引きずっていた。つまりそれは、ふて腐れていたという事ではないのかな」
大きな帽子の下で女は笑った。
「そうね、あなたの言う通りよ」
華々しい笑顔に男の心は微かに揺れ、奇抜なメイクを施した顔に手を当てた。厚く塗りたくったメイクの乾いた感触が指先に触れ、男はすぐに手を離す。

 新緑の木々の通路に入り再び帽子の女の後を追っていると、通路の向こうから一人の少女が歩いてくるのが見えた。少女は青いターバンを巻き、耳には真珠の耳飾りを付け、青空に照らされた生命の香りがする木々の中を静かに歩いてくる。身なりも変わっているが、それ以上に言葉では表せない不思議な空気を持つ少女だった。
 帽子の女もそれに気づいたようで、女の薄い背中に緊張が走ったのが道化師にはわかった。それでも女は警戒した様子は見せずに、青いターバンの少女に声をかける。
「こんにちは、今日はいい天気ね」
大人びた様子の少女はうなずいた。そのたった一つの動作には、幼いながらも品性の良さを感じさせるものがあった。少女の耳で揺れる真珠のように光ろうとせずも光る品性。
「どこから来たの? 今日は一人?」
青いターバンの少女は、木々の枝や葉が重なり緑の天井と化した頭上を指さす。
「この綺麗な緑の輪の先にあるカフェにいたの。一人でね。私は人と話すのが好きだけれど、こうやって一人で歩くことも好きなの。心を高ぶらせることなく、豊かな自然の一部のような気持ちで歩くと、心のどこかに隠されていた自分自身と対話できる気がするの」
透き通った声が鳴らした言葉には知性も感じられた。少女ではなく大人の女性であるのかもしれない
「素敵ね。あなたと隠れていたあなたが対話をするなら、きっと素敵なことが起こりそう」
「ありがとう。私ね、心の中で私自身にもハーブティーを淹れてあげるの。ラベンダーやローズマリー、その日の気分で淹れる種類は違うけれど、いつでも柔らかで優しい香りが私達を包み込んでくれるのよ」
言葉をほんの数回交わしただけで大きな帽子の女の背中から緊張感は消えていた。この少女は人の心に安らぎを与えるハーブの精ではないかと道化師は思う。
高い腰を少しかがめ、少女と視線を合わせた女は楽しそうに聞く。
「香りに包まれたあなた達はどんな話をするの?」
心に温かい毛布を与える少女は笑った。その表情には大人びた容姿や言葉遣いに隠された、子供の顔が透けるようだった。
「そうね、この数日の間に心の外と中で起こった出来事を話し合ったりするの。こんなに面白い本があったのよとか、凄く美味しい紅茶を見つけたのとか、酔っ払いのおじさんが素敵な詩を歌っていたって教えてあげるの。すると心の中の私が教えてくれるのよ」
帽子の女は楽しそうにうなずいている。
「私がその面白い本を見つけた時、心の中ではこんな変化があったのよ。美味しい紅茶を飲んだ時も、酔っ払いのおじさんの詩を聞いた時にも心の中はこんなに輝いていたのって。どれだけ小さくてもいいから生きていく喜びを感じることが大事だと、心の中の私はいつも教えてくれるの。だから私の心の中の引出しには素晴らしい思い出がたくさん」
女は青いターバンの少女に、鼻先が触れるほど顔を近づける。
「素敵な話をありがとう。あなたのおかげで私の心に黄緑色の鳥が飛んだわ」
「黄緑色の鳥?」
「そう、か弱い黄色を緑色が優しく包み込んだ美しい鳥。幸せを感じると私の心にはその鳥が飛ぶのよ」
青いターバンの少女は至福の笑顔を見せた。
「こちらこそありがとう。それじゃあ私そろそろ行こうかな」
「ねぇ、これからお姉さん達ともう一度カフェに行かない? あなたともっと話がしたいわ」
少女は小さく首を振り、その振動で耳飾りが揺れ木々の隙間を縫い届いた陽の光を弾く。
「あなたたちは二人で行った方がいいわ。今日はきっと私はお邪魔」
「そうかしら」
青いターバンの少女は笑みを崩さぬまま道化師を見る。何故か内心をくすぐられている気がして道化師は少女から目を離す。
 二人の様子を見ていた大きな帽子の女が、その場を取りなすように口を開く。
「おかしな顔してるでしょう、この人。こんな厚塗りのピエロみたいなメイクしてね」
帽子の女の言葉に少女は遠慮することなく首を縦に振る。
「ね、こんなメイクやめればいいのにね。でもねメイク落とすのは嫌なんだって。『これが道化師の証だ』なんて言うのよ」
「私もやめた方がいいと思うわ」
少女の返答は早かった。
「でしょ、絶対やめた方がいいわよね。あんなメイク」
少女は防止の女から離れ一歩二歩と道化師に近づいてくる。そして道化師が恐怖を抱く手前の距離で足を止めた。
「お兄さん、仮面をつけてまで笑われるのなら、素顔で笑われた方がずっといいわ。人が人として生きようとして、そんなあなたを笑う人達なんて最低よ。それならあなたも笑い返してやればいいわ。笑われてもけなされても、あるがままの姿で生きるの。そして心許せる人達と美味しいものを食べて笑い合うの。そして優しい香りと味の紅茶を飲む。きっとその方がいいわ。うん、その方がずっといい」
帽子の女は何も言わず後ろから少女を抱きしめた。
「素顔のあなたはきっと素敵よ」
その場に立ち尽くしたまま、道化師は口を開く。
「そうだろうか」
「ええ、きっと」
木々の上で鳥が鳴き、それと重なるように仮面のひび割れる音が聞こえた気がした。
 ゆっくりと緑の通路を歩き始めた少女。その背中に帽子の女は声をかける。
「今日はありがとう。必ずまた会おうね。その時こそお姉さんがカフェで好きな物おごってあげるから」
優しい笑みで少女は振り返る。
「必ず、約束ね」
短いが信頼のおける言葉を帽子の女に渡し、もう一度道化師の目を見つめる。深く静かな水晶玉のような瞳。
「あなたなら大丈夫。次に合う時にはあなたの顔で笑って見せて」
その言葉を最後に再び歩き出した青いターバンの少女を、二人は黙って見送った。涙の雫のような真珠の耳飾りを揺らす少女の背中が見えなくなるまで、ずっと。すべてを受け止めるかのような世界の真ん中の隅を思わせる空の下、耳には鳥たちの鳴き声が届き、深々と揺れる木々の中には自分の素顔を覗いてくれようとする女性が一人。
男は安らぎに触れた気がした。
 青いターバンを巻いた不思議な少女を見送り、二人は木々の通路の先にあるというカフェに向かい歩いていた。男の隣を歩く帽子の女は、木の枝の先に実る果実に目を向け突然小走りを始める。
「おい、どうした」
男の声が聞こえないかのように女は走り、「ごめんね」と言い枝から濃い赤色の果実を切り離し、大きく噛った。果実を口に含んだ女の口元からは透明な果汁がみずみずしくこぼれ出していた。
 女は半笑いを浮かべ、大きく欠けた果実を男に差し出す。どうしていいか困惑していた男を見て女は「あ、嫌だよね」と、気など使う必要はないのに果実を割ろうとする。その行動に男も笑い、女の手から太陽のように赤い果実を奪い取り、女の歯型が残るその上からさらに大きく口を開き噛り付く。口の中に甘酸っぱい生命の味が広がった。
「意外だった」
帽子の女は微笑み男を見ている。
「何がだ?」
「あなたの事だから、子リスのように食べるのかと思ってた。削る様に果物を食べる姿も見てみたかった」
「うるさい」
男の腰に女の小さな拳が埋め込まれた。
「でもなかなか野性的でよかったよ」
「うるさい」
二人の歩く木々の通路の先には強く光が差し込んでいた。どうやらあそこでこの通路も終わりらしい。目当てのカフェも近いようだ。帽子の女は聞く。
「気分はどう?」
「気分か。そうだな、悪くはない」
男は随分小さくなった果肉を口の中に放り込んだ。
「美味しかったでしょ」
「ああ、とても」
「あの果物ね、昔私が住んでた家の周りでたくさん生ってたの。庭に出ると果物と花の香りがして、空気がとても綺麗だったんだ」
女の言葉を紡ぎ合わせ、男は頭の中で女の故郷を想像する。涼やかな風が吹く中、庭を駆けずり回る一人の女の子と果実や花の香り。女の子を見つめる農作業中の両親の穏やかな顔。いつまでも続いてほしい穏やかな光景。
「きっといい所なんだろうな」
「今度案内してあげようか?」
「私を?いいのかい」
女は腕と背を伸ばし、吹き抜ける風のように微笑む。
「何よ、一つの果実を分け合った仲じゃない」
照れを隠すため男は微笑みから目を逸らす。
「そうだね。ありがとう」
 木々の通路を抜けたところには広場があり、散らばる様にベンチが三つと、子供が置き忘れていったのかサッカーボールが一つ、そして水飲み場。その広場の奥に木造のカフェが一軒ポツンと建っていた。二人の頭上には抱き留めたくなるような青空。男は空を見上げ一人笑った。
「いい機会かもしれないな」
「ん?何が」
空に向けた笑みと同じものを髪を抑え風に吹かれる女に見せ、男は水飲み場に向かい頭から冷水をかぶった。そして手の平で強く、乾いた顔をこする。一分ほど水を出し続けた後、男は自分の服で顔を拭き、退屈そうにサッカーボールを蹴る女の前に立った。
 数秒男の素顔を見つめ、女は笑顔で深く頷いた。
木造のカフェに向かい、並び歩き出した二人を撫でるかのように風が吹いた。
「綺麗な風ね」

                                芝本丈

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2017年8月7日月曜日

夜のカフェテリアで

 久し振りに読み物を一つ載せようと思います。
話の舞台はゴッホの『夜のカフェテリア』
今回登場人物として使わせてもらったのはロダンの『考える人』とピカソの『泣く女』です。そしてほんの少しムンクの『叫び』も出てきます。
 お時間のある方は目を通していただけると嬉しいです。







   ・夜のカフェテリアで
南フランスのアルルの星空の下、多くの人々で賑わうカフェテラスで女は泣き続けていた。
自分の向かいの席で泣き続けている女。自身で涙を止める理由は知っているようだが、女は決してそれをしない。泣き続けることを本能としているかのよう。男は一度も自分の前に座る女を見てはいないが、女が泣いていることだけはわかった。泣く女であるが故に泣く。それは必然の行為だ。
 
体臭の上に香りのプーケを載せた、女性客の後ろ姿を見ながら女は口を開く。
「いつまでそれを続ける気?こんなところで考え事なんかしないで」
涙を流してはいるが、女の声には涙の色はない。怒りのこもる口調で問いかけられた男は右頬と顎の間に手を置き、質問に答える気配をまるで見せない。石のように動きを止めている。
「私に同じ質問をさせないで」
女の声に怒りが増したように思えた。これ以上黙っていると、女の飲んでいるホットコーヒーを頭からかぶることになるかもしれない。男の前に座る女は決してヒステリックではなく、そのような行為とはかけ離れた女性であったが、コーヒーの香りに香水の強い香りが混じりあう店内の、地獄の入り口のような匂いが神経の切れた女の姿を想像させた。仕方なく男は答える。
「考えてはいない。お前は浅はかな勘違いをしている。容姿だけで目の前に座る人間のことを理解できると思わないことだ」
女の返答は早い。
「偉そうね。どういう育ち方をしたのかしら。それで、何?考えてもいないなら何であなたはうつむいているのよ」
「うつむいている訳でもない」
泣く女は首を横に振った。
「じゃあ何?」
「眺めているんだよ」
「何を?」
うつむく体勢の男の目に、随分貧相な靴が入った。元はそこそこいい靴だったようにも見えるが、今は薄汚れ所々に砂や泥がこびりついている。泣き続ける女はその靴をテーブルの下でパタパタと動かし、怒りを表している。足先を動かし怒りを表す様に面白みを感じ、男の口は少しだけ軽くなった。
「私の眼下に広がる地獄を眺めているんだよ。地獄の底でもがき苦しむ罪人たちを、私はこうして眺めている」
男の言葉の終わりに泣く女のため息が重なった。
「呆れた。じゃあ何、私達が座るここはカフェテラスではなく、地獄を見下ろす高台なの? それで苦しむ罪人たちをつまらなそうに眺めてるあなたは神だとでもいうわけ?」
「いいや、ここは紫に近い青の夜の空の下、黄色い明かりが照らすカフェテラスだ。そして私は地獄の門から独立した者であり、神ではない」
「頭が痛くなってきたわ」
男の言葉に呆れ果てた女は、後ろを通った背の高いウェイトレスに赤ワインを頼んだ。ワインを注文した女の態度は目の前の男に対するものとは違い、非常に丁寧だった。
「赤ワインくださる?」と。その違いに驚きを感じたわけではないが、男は地獄から目を上げた。
「やっとこっちを見たわね」
目の前に座る女の顔はとても言葉で表現できるものではなかった。今宵の空のような青い髪に、体調を崩した灰色を満遍なく顔に塗りたくり、黄色い影を垂らすその顔は崩れかかったようにも見える。この世のものとは思えない顔で泣き続ける女。男の眺める地獄に今すぐみでも住まわせることができるほどだ。赤黒い地獄の背景がよく似合いそうな女。だがそんな女を、このカフェテラスにいる人間たちは誰も気にする素振りは見せない。明らかに異端に見える女は、このカフェの中では普通の一個人であると認識されているようで、それならば男も余計な口出しはせず、この女を人と認めた。人として認識されている者を、人に在らざる者と捉えることはあまりにも卑劣で非情だ。男は聞く。
「お前は誰なんだ?」
「見ればわかるでしょう。泣く女よ」
「そういうことではない、一体何者かと聞いている」
泣く女の表情に変化はなかったが、その変化の無さがかえって女の影の広がりを男に伝えた。
「名前はアンリエット・テオドラ・マルコヴィッチ。それともドラ・マールの方が伝わりやすいかしら。服も髪も目も、待とう空気さえ黒い美しい女性に連れられ、あなたに会いに来たの」
男はまた顔を下げる。彼の視線の先には赤黒い穴が広がり、そこでは罪人たちが手を伸ばし助けを求めている。希望や絶望、そして渇望の渦巻く地獄の住民たちの顔。明るいカフェテラスでまで見る物ではないその光景に嫌気が差し、男は地獄から目を離した。
「お前は私の話が分からないと言ったが、私にもお前の話が理解できない。どうやら我々は、言葉で伝えることを苦手としているようだ。お前がそのことをどう感じているかはわからないが、これは重要な問題だ。自分の考えや思いを正確に他者に伝えられないことは非常に辛い。生きるという概念上、他者に物事を伝えられないのは多くの問題を抱えることとなる」
夜の空気を重厚にまとい、存分に見せる価値のある品性を微かに残したウェイトレスの手でテーブルに置かれた赤い液体は、熟した果実の香りを放ち女の喉を通るのを待ちわびているように見えた。悪魔の液体だ。それを女は躊躇することなく口元へ運んだ。
「あなたにとって生きるという行為は概念でしかないの?」
「私は生きることを必要としていなかった。そもそも私は…」
言い淀んだ男の目と、今にもこぼれ落ちそうな女の目が結ばれた。
「続きは?」
「やめておく。お前には私の話は理解できないであろうし、お前に話す必要もない」
「そのほうがいいわ。私もあなたの話は聞きたくないもの」
「それより…」
女はまだ言いたいことがあるようだった。目を細め男を見ている。
「その『お前』って言い方止めてくれない。今教えたでしょう、どちらで呼んでもいいから『お前』はやめて」
滲み出そうな感情を隠すため、男は右手を強く頬に埋めた。
「ではドラ・マールと呼ばせてもらおうか」
女は首を横に振る。
「それでも窮屈ね。ドラでいいわ」
「ドラ、ドラか」
「それで決まりね。『お前』はやめて」
「わかった。それを試みる」
赤い悪魔の液体を飲んだドラ・マールは灰色の頬をほのかに赤く染め、奥のテーブルに一人で座る男性を見た。
「彼は一人でいるのに楽しそうね。おそらく大人である彼には失礼な言い方かもしれないけれど、少年のように生き生きとしている。この世に生を受けたばかりの小鳥の産毛のよう」
ドラ・マールは手に持つグラスを回しながら、目の前に座る男に目を戻した。
「あなたとは大違いね」
「同じ人間などいない。完全に同じ人間は存在を許されない。生命とは一つの個を成すものであり…」
「あなたの話は聞きたくないと言ったでしょう」
二人の間に一瞬の沈黙が流れ、グラスの中を空にしたドラ・マールは声を出す。
「ねぇ、手紙を書いてみない?」
「誰に?何のために? その行為に必要性はあるのか?」
グラスとコーヒーカップが置かれただけの空っぽのテーブルの上に、空虚なため息が通る。
「理由ばかり求めていても何も始まらないわ。意味を持たない行為を楽しんでこその人生じゃないかしら。あなたはまた私の言葉に理屈をこねるのでしょうけど」
「見透かされているのなら、その行為は意味をなさない」
ドラ・マールはテーブルに身を乗り出すような体勢になる。振り返り店の奥に目をやったと思えば、次は体を乗り出す。それも泣きながら。何とも忙しい女だった。
「やってみましょう。お互いが一言づつ言葉をつなげていくの。それで完成した手紙を彼に渡す。同じ日の同じ時間に同じカフェテラスにいるんですもの。手紙一枚で繋がりを作るの」
「私にはまるで理解できない」
「遊びを理解する必要はないわ。でもね、あなたが作り出した地獄を眺めているより、誰かに向けて手紙を作ることの方がずっと有意義なことよ」
男にはドラ・マールの涙が少し薄らいだようにも見えた。賑わうカフェテラスの中、目の前で泣かれ続けているよりは『手紙を作る』という、女が発案した無意味な行為に励むことの方がまだ賢いように思え、女に目をやりうなずいて見せる。
「あら、意外と要領よく納得してくれたのね」
「この納得にも深い意味はない。ただこの場の悪しき居心地を取り払うためだ。それに意味はないし、意味を求めてもいけない」
男の声が聞こえていないかのように女は話す。
「さぁ、さっき説明した通りよ。お互いに一言づつ言葉をつなげ手紙を完成させるの。そしてそれを彼に渡す。いいわね、じゃあ私から」
男の納得の後、遊びはすぐに始められた。泣くことから遠ざかり始めた女は、勝手に手紙を作り渡すことに決めた、カフェテリアの奥に一人で座る青年を見る。
「生きるということは」
生きること。この女は一体どんな内容の手紙を彼に渡すつもりなのか。全く知りもしない人間から生きることについての手紙を渡されることは、恐怖以外の何物でもないはずだ。だが地獄を眺め続けることだけに時間を費やしてきた男には、この流れを断ち切るすべはなかった。
「考えるかのように一点を眺め続けるだけではなく」
続けられた男の言葉にドラ・マールは初めて笑った。泣いているのだが、心地の良さが伝わる表情。
「自らの行動に価値を見出し、人生を描き切ること」
自分のすることにいちいち難癖をつけてきた女の言葉は、決して飾り気はないが男の内心をくすぐるようだった。自らの行動に価値を見出す、悪くない言葉だ。
 たった一行で終わるようではその手紙は手紙としての体を成さない。男は迷ったが言葉を続ける。
「人が生きる道には、多くの苦難が待ち構えているだろう」
「だが君は間違えてはいけない」
ドラ・マールは即座に言葉を付けたし、また笑みを見せた。どうやらこの遊びを本当に楽しんでいるようだ。自分と関係のない女とはいえ、自分との遊びに興じる女性を落胆させるのは忍びなく、男はこの奇妙な遊びに戻る。
「苦難を多く味わうほど、いずれ訪れる喜びの花は大きく咲く」
ドラ・マールは考えるようにカフェテリアの天助を見上げた。言葉を探しているのだろう。
「喜びの花に辿り着くまでに、悲しみの波に飲み込まれそうになることもあるでしょう」
「波に負けぬには笑う事」
「そう、高らかに笑いなさい」
ドラ・マールは男の答えを望んでいるようだった。悲しみの波に襲われた時どうすべきか。男は女の目を見て、頭に浮かんだ考えをそのまま口に出す。
「我々は常に人生を描き出す筆を握っている。生を得て、生を堪能し、生を土に置く。その間に笑う時間が豊富であれば、描いた人生に美が宿る」
女は小さくうなずいた。
「そうね、きっとそう」
「ドラ、それも手紙に載せる一文か?」
「あなたの言葉に対する感想よ。あなたは生真面目すぎるわ。でもその気持ちはきっと伝わる」
ドラ・マールは確かに笑った。顔に溢れ続けていた涙はようやく止まったように男には思えた。
 夜のカフェテラスで女と男の遊びは続いた。知らぬ者同士が即興の言葉で手紙をつづり、それをまた見知らぬ青年に渡す。渡される側にとっては迷惑な遊びかもしれないが、泣くことと眺めることを続けてきた二人にとっては裕福な時間であった。
 二人で紡ぎ合った言葉を紙に書き、それを読み返したドラ・マールは一人笑みを膨らませる。
「なかなか傑作な手紙になっているわ」
「私にも読ませてくれ」
男は女の手から手紙を受け取り、目を通す。意味の通る部分もあるが、それは手紙を模した意味不明な言葉の羅列にも男には思えた。
「人に見せるものではないな」
「いいじゃない。これはこれで素敵な手紙よ。彼ならこれでも、何かを感じ取ってくれるかもしれない。渡してくるわね」
男の呼び止める声が聞こえないように、女は椅子から立ち上がりカフェテリアの奥に座る青年の元へ歩いて行く。
 突然女に声をかけられた少年は驚いたようだが、意外と話し好きなのかドラ・マールとの話は弾んでいるようにも思えた。女は図々しくも青年の向かいの椅子にまで座り込み話し込んでいたが、男を待たせることに悪気を感じたのか、一度男に振り向き青年のテーブルを離れた。お互いに手を振り合う二人。その姿は何故か二人が古くからの友のようにも思えた。
「どうだった、受け取ってもらえたのか」
「もちろん」
ドラ・マールは先ほどとは違うウェイトレスに、二杯目の悪魔の飲み物を頼んだ。
「またあれを飲むのか」
「いいでしょ。今日の夜空にもカフェテラスにも、赤ワインが一番合うわ。それに…」
女は目の前で赤ワインを揺らし、その先に歪むように映る男を見る。その目に押され男は椅子に深く体を預けた。女が何を言いたいのかはわからなかったが、男は頭に浮かぶ疑問をすぐに投げかけた。
「彼は何と言っていた」
「ありがとうって。また一つこの世界に形跡が残せたって」
「形跡?」
真っ赤な液体を口に含み、女はその液体を口内で転がしている。どうやらドラ・マールは悪魔の液体の嗜み方をよく知っているようだった。
「彼ね、おかしなことを言うのよ。僕はまだこの世界の住人になったばかりなんだって。なんでも青いターバンを巻いて真珠の耳飾りをした少女に橋の上を離れる勇気をもらって、その少女に自分のこの世界での形跡を伝えるために、今このカフェテラスにいるんですって」
「一体何なんだそれは。まるで理解が及ばない」
ドラ・マールはまた赤い液体を喉に通す。
「私にもわからないわ。でも彼はこれからも旅を続けていくんですって。時に、自然の声に耳を傾けながら」
「理解できないが、おそらく彼の心は涼やかなのだろうな。我々とは違って」
「あなたも地獄の中の罪人たちを眺めることから離れてみたら? そんなもの見続けていたって飽きるでしょう」
空になったコーヒーカップの底で、コーヒーという飲料だった液体が寂しくこびり付いていた。
「私にはそれをすること以外に、理由を見いだせない」
ドラ・マールの手が男の手首をつかんだ。灰色の手からは意外なことに暖かい熱が伝わってくる。
「理由なんていらないわ。あなたはまずそこから立ち上がりなさい。あの青年のように」
「ここから?」
「そうよ、地獄の底を眺める高台から立ち上がるのよ」
ドラ・マールの顔から涙は完全に消えていた。その理由を掴むことは出来そうだったが、男はあえて手を伸ばさなかった。この世界にはきっと理由のいらないものもあるのだ。
 新しい遊びを思いついたかのように男の手を引く女。
「仕方ないな」
男は椅子の形をした高台から腰を上げ、連れられるように女の後を追った。
地獄を眺めることより有意義な遊びが始まる予感に、胸を高鳴らせながら
 街を照らす夜の空気を、男は思い切り吸い込んだ。

                              芝本丈


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