http://www.2ko2kora2ko6256.com シバジョーのブログ: 夜のカフェテリアで

2017年8月7日月曜日

夜のカフェテリアで

 久し振りに読み物を一つ載せようと思います。
話の舞台はゴッホの『夜のカフェテリア』
今回登場人物として使わせてもらったのはロダンの『考える人』とピカソの『泣く女』です。そしてほんの少しムンクの『叫び』も出てきます。
 お時間のある方は目を通していただけると嬉しいです。







   ・夜のカフェテリアで
南フランスのアルルの星空の下、多くの人々で賑わうカフェテラスで女は泣き続けていた。
自分の向かいの席で泣き続けている女。自身で涙を止める理由は知っているようだが、女は決してそれをしない。泣き続けることを本能としているかのよう。男は一度も自分の前に座る女を見てはいないが、女が泣いていることだけはわかった。泣く女であるが故に泣く。それは必然の行為だ。
 
体臭の上に香りのプーケを載せた、女性客の後ろ姿を見ながら女は口を開く。
「いつまでそれを続ける気?こんなところで考え事なんかしないで」
涙を流してはいるが、女の声には涙の色はない。怒りのこもる口調で問いかけられた男は右頬と顎の間に手を置き、質問に答える気配をまるで見せない。石のように動きを止めている。
「私に同じ質問をさせないで」
女の声に怒りが増したように思えた。これ以上黙っていると、女の飲んでいるホットコーヒーを頭からかぶることになるかもしれない。男の前に座る女は決してヒステリックではなく、そのような行為とはかけ離れた女性であったが、コーヒーの香りに香水の強い香りが混じりあう店内の、地獄の入り口のような匂いが神経の切れた女の姿を想像させた。仕方なく男は答える。
「考えてはいない。お前は浅はかな勘違いをしている。容姿だけで目の前に座る人間のことを理解できると思わないことだ」
女の返答は早い。
「偉そうね。どういう育ち方をしたのかしら。それで、何?考えてもいないなら何であなたはうつむいているのよ」
「うつむいている訳でもない」
泣く女は首を横に振った。
「じゃあ何?」
「眺めているんだよ」
「何を?」
うつむく体勢の男の目に、随分貧相な靴が入った。元はそこそこいい靴だったようにも見えるが、今は薄汚れ所々に砂や泥がこびりついている。泣き続ける女はその靴をテーブルの下でパタパタと動かし、怒りを表している。足先を動かし怒りを表す様に面白みを感じ、男の口は少しだけ軽くなった。
「私の眼下に広がる地獄を眺めているんだよ。地獄の底でもがき苦しむ罪人たちを、私はこうして眺めている」
男の言葉の終わりに泣く女のため息が重なった。
「呆れた。じゃあ何、私達が座るここはカフェテラスではなく、地獄を見下ろす高台なの? それで苦しむ罪人たちをつまらなそうに眺めてるあなたは神だとでもいうわけ?」
「いいや、ここは紫に近い青の夜の空の下、黄色い明かりが照らすカフェテラスだ。そして私は地獄の門から独立した者であり、神ではない」
「頭が痛くなってきたわ」
男の言葉に呆れ果てた女は、後ろを通った背の高いウェイトレスに赤ワインを頼んだ。ワインを注文した女の態度は目の前の男に対するものとは違い、非常に丁寧だった。
「赤ワインくださる?」と。その違いに驚きを感じたわけではないが、男は地獄から目を上げた。
「やっとこっちを見たわね」
目の前に座る女の顔はとても言葉で表現できるものではなかった。今宵の空のような青い髪に、体調を崩した灰色を満遍なく顔に塗りたくり、黄色い影を垂らすその顔は崩れかかったようにも見える。この世のものとは思えない顔で泣き続ける女。男の眺める地獄に今すぐみでも住まわせることができるほどだ。赤黒い地獄の背景がよく似合いそうな女。だがそんな女を、このカフェテラスにいる人間たちは誰も気にする素振りは見せない。明らかに異端に見える女は、このカフェの中では普通の一個人であると認識されているようで、それならば男も余計な口出しはせず、この女を人と認めた。人として認識されている者を、人に在らざる者と捉えることはあまりにも卑劣で非情だ。男は聞く。
「お前は誰なんだ?」
「見ればわかるでしょう。泣く女よ」
「そういうことではない、一体何者かと聞いている」
泣く女の表情に変化はなかったが、その変化の無さがかえって女の影の広がりを男に伝えた。
「名前はアンリエット・テオドラ・マルコヴィッチ。それともドラ・マールの方が伝わりやすいかしら。服も髪も目も、待とう空気さえ黒い美しい女性に連れられ、あなたに会いに来たの」
男はまた顔を下げる。彼の視線の先には赤黒い穴が広がり、そこでは罪人たちが手を伸ばし助けを求めている。希望や絶望、そして渇望の渦巻く地獄の住民たちの顔。明るいカフェテラスでまで見る物ではないその光景に嫌気が差し、男は地獄から目を離した。
「お前は私の話が分からないと言ったが、私にもお前の話が理解できない。どうやら我々は、言葉で伝えることを苦手としているようだ。お前がそのことをどう感じているかはわからないが、これは重要な問題だ。自分の考えや思いを正確に他者に伝えられないことは非常に辛い。生きるという概念上、他者に物事を伝えられないのは多くの問題を抱えることとなる」
夜の空気を重厚にまとい、存分に見せる価値のある品性を微かに残したウェイトレスの手でテーブルに置かれた赤い液体は、熟した果実の香りを放ち女の喉を通るのを待ちわびているように見えた。悪魔の液体だ。それを女は躊躇することなく口元へ運んだ。
「あなたにとって生きるという行為は概念でしかないの?」
「私は生きることを必要としていなかった。そもそも私は…」
言い淀んだ男の目と、今にもこぼれ落ちそうな女の目が結ばれた。
「続きは?」
「やめておく。お前には私の話は理解できないであろうし、お前に話す必要もない」
「そのほうがいいわ。私もあなたの話は聞きたくないもの」
「それより…」
女はまだ言いたいことがあるようだった。目を細め男を見ている。
「その『お前』って言い方止めてくれない。今教えたでしょう、どちらで呼んでもいいから『お前』はやめて」
滲み出そうな感情を隠すため、男は右手を強く頬に埋めた。
「ではドラ・マールと呼ばせてもらおうか」
女は首を横に振る。
「それでも窮屈ね。ドラでいいわ」
「ドラ、ドラか」
「それで決まりね。『お前』はやめて」
「わかった。それを試みる」
赤い悪魔の液体を飲んだドラ・マールは灰色の頬をほのかに赤く染め、奥のテーブルに一人で座る男性を見た。
「彼は一人でいるのに楽しそうね。おそらく大人である彼には失礼な言い方かもしれないけれど、少年のように生き生きとしている。この世に生を受けたばかりの小鳥の産毛のよう」
ドラ・マールは手に持つグラスを回しながら、目の前に座る男に目を戻した。
「あなたとは大違いね」
「同じ人間などいない。完全に同じ人間は存在を許されない。生命とは一つの個を成すものであり…」
「あなたの話は聞きたくないと言ったでしょう」
二人の間に一瞬の沈黙が流れ、グラスの中を空にしたドラ・マールは声を出す。
「ねぇ、手紙を書いてみない?」
「誰に?何のために? その行為に必要性はあるのか?」
グラスとコーヒーカップが置かれただけの空っぽのテーブルの上に、空虚なため息が通る。
「理由ばかり求めていても何も始まらないわ。意味を持たない行為を楽しんでこその人生じゃないかしら。あなたはまた私の言葉に理屈をこねるのでしょうけど」
「見透かされているのなら、その行為は意味をなさない」
ドラ・マールはテーブルに身を乗り出すような体勢になる。振り返り店の奥に目をやったと思えば、次は体を乗り出す。それも泣きながら。何とも忙しい女だった。
「やってみましょう。お互いが一言づつ言葉をつなげていくの。それで完成した手紙を彼に渡す。同じ日の同じ時間に同じカフェテラスにいるんですもの。手紙一枚で繋がりを作るの」
「私にはまるで理解できない」
「遊びを理解する必要はないわ。でもね、あなたが作り出した地獄を眺めているより、誰かに向けて手紙を作ることの方がずっと有意義なことよ」
男にはドラ・マールの涙が少し薄らいだようにも見えた。賑わうカフェテラスの中、目の前で泣かれ続けているよりは『手紙を作る』という、女が発案した無意味な行為に励むことの方がまだ賢いように思え、女に目をやりうなずいて見せる。
「あら、意外と要領よく納得してくれたのね」
「この納得にも深い意味はない。ただこの場の悪しき居心地を取り払うためだ。それに意味はないし、意味を求めてもいけない」
男の声が聞こえていないかのように女は話す。
「さぁ、さっき説明した通りよ。お互いに一言づつ言葉をつなげ手紙を完成させるの。そしてそれを彼に渡す。いいわね、じゃあ私から」
男の納得の後、遊びはすぐに始められた。泣くことから遠ざかり始めた女は、勝手に手紙を作り渡すことに決めた、カフェテリアの奥に一人で座る青年を見る。
「生きるということは」
生きること。この女は一体どんな内容の手紙を彼に渡すつもりなのか。全く知りもしない人間から生きることについての手紙を渡されることは、恐怖以外の何物でもないはずだ。だが地獄を眺め続けることだけに時間を費やしてきた男には、この流れを断ち切るすべはなかった。
「考えるかのように一点を眺め続けるだけではなく」
続けられた男の言葉にドラ・マールは初めて笑った。泣いているのだが、心地の良さが伝わる表情。
「自らの行動に価値を見出し、人生を描き切ること」
自分のすることにいちいち難癖をつけてきた女の言葉は、決して飾り気はないが男の内心をくすぐるようだった。自らの行動に価値を見出す、悪くない言葉だ。
 たった一行で終わるようではその手紙は手紙としての体を成さない。男は迷ったが言葉を続ける。
「人が生きる道には、多くの苦難が待ち構えているだろう」
「だが君は間違えてはいけない」
ドラ・マールは即座に言葉を付けたし、また笑みを見せた。どうやらこの遊びを本当に楽しんでいるようだ。自分と関係のない女とはいえ、自分との遊びに興じる女性を落胆させるのは忍びなく、男はこの奇妙な遊びに戻る。
「苦難を多く味わうほど、いずれ訪れる喜びの花は大きく咲く」
ドラ・マールは考えるようにカフェテリアの天助を見上げた。言葉を探しているのだろう。
「喜びの花に辿り着くまでに、悲しみの波に飲み込まれそうになることもあるでしょう」
「波に負けぬには笑う事」
「そう、高らかに笑いなさい」
ドラ・マールは男の答えを望んでいるようだった。悲しみの波に襲われた時どうすべきか。男は女の目を見て、頭に浮かんだ考えをそのまま口に出す。
「我々は常に人生を描き出す筆を握っている。生を得て、生を堪能し、生を土に置く。その間に笑う時間が豊富であれば、描いた人生に美が宿る」
女は小さくうなずいた。
「そうね、きっとそう」
「ドラ、それも手紙に載せる一文か?」
「あなたの言葉に対する感想よ。あなたは生真面目すぎるわ。でもその気持ちはきっと伝わる」
ドラ・マールは確かに笑った。顔に溢れ続けていた涙はようやく止まったように男には思えた。
 夜のカフェテラスで女と男の遊びは続いた。知らぬ者同士が即興の言葉で手紙をつづり、それをまた見知らぬ青年に渡す。渡される側にとっては迷惑な遊びかもしれないが、泣くことと眺めることを続けてきた二人にとっては裕福な時間であった。
 二人で紡ぎ合った言葉を紙に書き、それを読み返したドラ・マールは一人笑みを膨らませる。
「なかなか傑作な手紙になっているわ」
「私にも読ませてくれ」
男は女の手から手紙を受け取り、目を通す。意味の通る部分もあるが、それは手紙を模した意味不明な言葉の羅列にも男には思えた。
「人に見せるものではないな」
「いいじゃない。これはこれで素敵な手紙よ。彼ならこれでも、何かを感じ取ってくれるかもしれない。渡してくるわね」
男の呼び止める声が聞こえないように、女は椅子から立ち上がりカフェテリアの奥に座る青年の元へ歩いて行く。
 突然女に声をかけられた少年は驚いたようだが、意外と話し好きなのかドラ・マールとの話は弾んでいるようにも思えた。女は図々しくも青年の向かいの椅子にまで座り込み話し込んでいたが、男を待たせることに悪気を感じたのか、一度男に振り向き青年のテーブルを離れた。お互いに手を振り合う二人。その姿は何故か二人が古くからの友のようにも思えた。
「どうだった、受け取ってもらえたのか」
「もちろん」
ドラ・マールは先ほどとは違うウェイトレスに、二杯目の悪魔の飲み物を頼んだ。
「またあれを飲むのか」
「いいでしょ。今日の夜空にもカフェテラスにも、赤ワインが一番合うわ。それに…」
女は目の前で赤ワインを揺らし、その先に歪むように映る男を見る。その目に押され男は椅子に深く体を預けた。女が何を言いたいのかはわからなかったが、男は頭に浮かぶ疑問をすぐに投げかけた。
「彼は何と言っていた」
「ありがとうって。また一つこの世界に形跡が残せたって」
「形跡?」
真っ赤な液体を口に含み、女はその液体を口内で転がしている。どうやらドラ・マールは悪魔の液体の嗜み方をよく知っているようだった。
「彼ね、おかしなことを言うのよ。僕はまだこの世界の住人になったばかりなんだって。なんでも青いターバンを巻いて真珠の耳飾りをした少女に橋の上を離れる勇気をもらって、その少女に自分のこの世界での形跡を伝えるために、今このカフェテラスにいるんですって」
「一体何なんだそれは。まるで理解が及ばない」
ドラ・マールはまた赤い液体を喉に通す。
「私にもわからないわ。でも彼はこれからも旅を続けていくんですって。時に、自然の声に耳を傾けながら」
「理解できないが、おそらく彼の心は涼やかなのだろうな。我々とは違って」
「あなたも地獄の中の罪人たちを眺めることから離れてみたら? そんなもの見続けていたって飽きるでしょう」
空になったコーヒーカップの底で、コーヒーという飲料だった液体が寂しくこびり付いていた。
「私にはそれをすること以外に、理由を見いだせない」
ドラ・マールの手が男の手首をつかんだ。灰色の手からは意外なことに暖かい熱が伝わってくる。
「理由なんていらないわ。あなたはまずそこから立ち上がりなさい。あの青年のように」
「ここから?」
「そうよ、地獄の底を眺める高台から立ち上がるのよ」
ドラ・マールの顔から涙は完全に消えていた。その理由を掴むことは出来そうだったが、男はあえて手を伸ばさなかった。この世界にはきっと理由のいらないものもあるのだ。
 新しい遊びを思いついたかのように男の手を引く女。
「仕方ないな」
男は椅子の形をした高台から腰を上げ、連れられるように女の後を追った。
地獄を眺めることより有意義な遊びが始まる予感に、胸を高鳴らせながら
 街を照らす夜の空気を、男は思い切り吸い込んだ。

                              芝本丈


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