純文学はインパクト重視の作風ではなく、余計な部分を削り取り、純粋に文字だけで小説を芸術化させることを目的にしていて、ガラス細工を作り上げるような精妙さで作品作りが進められていき、作家は神経をすり減らし一つの文章の芸術作品を仕上げていきますが、一般の読者から受ける印象としては「地味」が最も多いでしょう。
ですが純文学に心を置く作家たちは、読者から「地味」と思われようが「陰」と思われようが、文章が見せる「美」を追い求めていきます。
・純文学は「バランスとリズム」により美を魅せる
純文学を語る上で、「バランス」や「リズム」という言葉が使われることは意外かもしれませんが、バランスとリズムなくしては純文学は成り立たないのです。
文章中の平仮名と漢字で絶妙なバランスを取り、文章を読み進めていく上でのリズム感。この美しい文章の流れを、娯楽性を放り出してまでも追い求めていく文学こそが、純文学であり、本当の純文学作家なのです。
もちろん大衆文学でも、バランスとリズムは大事ですし、これを無くして優れた作品とは言えないでしょう。しかし大衆小説の文章表現は美とは関係なく、読者に分かりやすく内容を伝えるための手段でしかありません。それに対して純文学は、文章表現の目的は美へと向けられています。何だかこんな書き方をしていては、私が純文学の肩を持っているように思われても困るので一言付け足しておきますが、芸術性や美を追い求めるがあまり、読者を置いてけぼりにしてしまうことは、いかがなものかとも私は思います。読者に、作家が作り上げた芸術作品に酔わせ、深く吟味させることを意識するあまり、楽しめる小説からはかけ離れてしまっているようにも思えます。
これは書く予定ではなかったのですが、純文学の悪い点をもう一つ上げさせてください。純文学作品は大衆文学作品よりも、強く作者の考えや意思が反映されています。純文学とは自分語りに近い面を持っています。そのため、どうしても作者があってこその作品、作者第一主義の作品が多くなってしまい、結果として大衆小説より「つまらない」と言われるようになりました。自分語りを文章表現により価値あるものにまで磨き上げたとはいえ、読者が楽しめることに視点を置いた大衆文学から比べると、やはり娯楽性の少なさは明らかです。
だからこそ文章の芸術作品とも言われているのでしょうが。
ちなみに海外には純文学は存在しないと言われています。純文学に近い作品は探せばいくらでもありますが、それが日本で言う所の「文章表現を芸術にまで高めた作品」であるかと聞かれると、NOと言うしかないです。高品質な文書が使われている作品があっても、娯楽性を無視してまで、美や芸術を追い求めている作品ではないですからね。
シバジョーのつぶやき
私はドライフルーツが好きなのですが、札幌には専門的に扱う店もなく(私が知らないだけかもしれませんが)、いつも通販か東京などで仕入れてくるしかないのでけっこう不便しています。もう時期は過ぎましたが、イチジクが大好物なのでイチジクのドライフルーツを自宅で作ることが出来たらいいなと思っています(ブログのネタにもなりそうですし)。
簡単にドライフルーツを作れるような気の利いた物がないか探してはいるのですが、なかなか見つかりません。そんな便利なものはないのかな。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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