チェーホフの銃とは小説や映画におけるテクニックやルールの一つであります。
詳しく説明していきますと、ストーリーの早い段階で物語に導入された要素について、終盤になってから、その意味や重要性を明らかにする文学の技法です。この概念はロシアの劇作家 ※アントン・チェーホフに由来しています。
チェーホフはこの概念を様々な形に展開して、世界文学史にも名前を残していきました。チェーホフの銃として多くの人間に知られるようになった技法が、明確に表れている作品が「ワーニャ叔父さん」であり、早い段階で一見ありふれた小道具として作品の舞台に持ち込まれた銃が、作品の終盤に向かうにつれ重要なものとなり、ワーニャは怒りで拳銃を取り、殺人を犯そうとします。
この作品に見られるようにチェーホフの銃は、伏線の手法の一つと解釈されていますが、この概念は「ストーリーには無用な要素を取り込んではいけない」とも受け取ることが出来ます。
チェーホフの銃と言う表現は、「ストーリーに組み込まれたものは、全て後段の展開で使用しなければならず、そうならないものはそもそも物語に取り上げてはならない」と論じたチェーホフ本人の言葉に由来しています。
その他にもチェーホフの残した言葉いくつもあり、それを少し紹介していきます。
「誰も発砲することを考えないのであれば、弾を入れたライフルを舞台上に置いてはいけない」
「もし第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、第2幕にはそれが発砲されるべきである。そうでないなら、そこに置いておくべきではない」
ここまで読んだ方になら、もうチェーホフの銃の意味が理解できたでしょう。つまりは物語に必要でないものは作中に出す意味が無く、逆に物語に必要な物ならば、そこに読者や観客の視点が強く当てられる前に、作中で触れておく必要があるのです。
しかし作家の悪い癖で、終盤にかけて物語を大きく変動させ読者にインパクトを与えようと、無駄な伏線を数多く張ってしまう場合もありますが、それらは全て作中で回収しなければなりませんし、一つ一つの伏線で読者を納得させなければなりませんので、大変な思いをすることになってしまいます。ですので伏線は数多く張ることはやめ、数を1つか2つに絞り、大きなインパクトを読者に与えるものにするといいでしょう。しかし下手くそな伏線を張ってしまうと、作品の後の展開が早い段階で読者や観客にバレて、作品自体への興味を削ぐことになってしまいますので、作品の展開を読ませない伏線を張ることが大事です。(伏線とは、作品の中で読者に気づかれないように、後のネタを先に仕込むことです)
※アントン・チェーホフはロシア文学のみならず、世界文学史でも巧みな技術でその名を遺す小説作家です。チェーホフが得意とするのは短編小説で、19世紀末にロシア文学史の流れに革命を起こしました。当時のロシア文壇では長編だけが小説と認められる風潮があり、短編小説は相手にもされていませんでした。そして小説の定義は出来事に焦点を当てた作品であったのに対し、チェーホフは外的な筋をほとんどもたない物語を書いた。言うなれば物語の中心は登場人物たちの内面にあり、会話の端や細かな言葉に注目するしかない作品を書き、ロシア文学史に革命を起こしました。「何かが起こっても、何も起こらない」この考えを元に、チェーホフは独自の手法でドラマを展開させていきました)
シバジョーのつぶやき
今なかなか難しい問題に直面してしまっています。問題解決の糸口はあるのだけれど、そこに手を伸ばしてしまってもいいものかどうか考えております。
それは置いておいて、いまだに信じられないというか、信じたくない雑学を一つ。
「紙を43回折れば月に届く」って雑学聞いたことあります? 私はこの話を何度か自慢げに聞かされたのですが、どうしても信じられない。だってただの紙ですよ。その紙を43回折っただけで、70万キロの長さになって38万キロ先の月に届くって・・・
無理ですよね?
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