http://www.2ko2kora2ko6256.com シバジョーのブログ: チョコレートの距離と動く秒針

2017年9月6日水曜日

チョコレートの距離と動く秒針


今日は読み物を。
今回使わせていただいた作品はベルナール・シャロワの『ル・ジャルダン』と冷たい画家と言われるフェリックス・ヴァロットンの作品を使わせていただきました。






お気に召すかどうかはわかりませんがお読みいただけたら光栄です




静かな午後の半ば過ぎ、時計の秒針が僕の背中に落ち、僕たちの時間は止まった。
白く整理整頓された部屋にかけられた時計の針が止まり、今日でちょうど一カ月。
カチカチと時を刻む音が聞こえなくなったのはいいことだ。時間の中に僕だけが取り残されているという事実が、確証ではなくなる気がしたから。
しかし刻々と過ぎていく時間の中で、自分の唯一の役割を放棄した掛け時計の物悲しさは、アスファルトを跳ねるカエルのようだ。行き場なく朽ち果てるのみ。インテリア時計として街角の小洒落た雑貨屋から僕の部屋に連れてこられたあの鉄くずも、いずれは彼女に見放され廃棄処分への道をたどるのだろう。
 紙を折る手を休め、針を動かさずとも堂々と僕の部屋の壁に居座る、彼女曰くヨーロッパ風のレトロなインテリア時計を眺めていた僕に、鉄くずの購入者の声がかけられた。それはまるで寝坊した子供を布団から引きずり出すような声。
「いつまでそうしてるつもり?」
この部屋と同じく、白く整えられた容姿を持つ彼女の口から発せられた言葉は、僕に対する嫌悪感を隠す様子はまるでない。人に対する彼女の怒りのゲージはそれほど低くはないのだが、何故か僕の行動は彼女の怒りに触れるようだ。それを認識している僕は淡々と声を出す。怒りに対し真っ向から怒りをぶつけるのは愚か者のすることだ。
「何の事?」
「聞かなくてもわかることは聞かないで。それよ、折り紙。私はあなたが紙を折っている姿が大嫌いなの。仕事に就いてもすぐにやめて折り紙ばっかり。あなたはその時計と同じ。一度止まったら再び動き出そうとすらしない」
僕は彼女を見ずに紙を折り続ける。今回挑戦しているのはペガサスだ。紙を3枚使用する僕にしては大作のため、息をするように怒る彼女に目を向けている暇などない。この紙にペガサスの姿を与え羽ばたかせてやるのが今の僕の使命なのだ。その背中に乗りペガサスを操ろうなどという横柄な気持ちは微塵もないけれどね。
「こうしていることによって僕の心は安らぐんだ。社会には何の益ももたらすことのできない僕だけど、ただの紙には得られない価値を、命を与えてやることが出来る。この行為を君がどうかしていると思うことについて、僕は怒りを感じることは無いよ。君は立派な女性だし、社会の一員でもある」
僕は紙を折り続けながら、彼女の息遣いに耳を寄せる。フェンネルの紅茶を愛飲する彼女の呼吸にはスパイシーな緑が香りがほのかに乗る。きっと怒りを覗かせている今でも彼女の周りにはフェンネルの花が揺れているのだろう。
「社会から見れば僕のような存在など害虫だろう。ううん、人に害すら与えることのできない僕は石ころと同じかもしれないな。石ころと同じ無価値な存在。そんな僕を社会の一員である君がどんな目で見ているか、僕にはよくわかる。ただこれだけは忘れないでほしいな。そんな目を僕に向けるということは、僕が君に同様の視線を送ることを許容したことと同じなんだ。人を見下すということは、その見下される人と同じ位置に立たなければできないんだ」
僕の言葉に呆れたのか、彼女のため息が聞こえた。
「あなたとこの部屋にいると頭が痛くなってくる。私出かけるわ」
僕が初めて顔を上げると、彼女はハチミツと林檎のジンジャーエールを作る手を止め、キッチンを片付け始めていた。彼女は本当に出来た人で、僕のために得意なジンジャーエールをいつでも作ってくれる。「ジンジャーエール作るけれど何がいい?」と優しく聞く彼女に、僕は洋梨のジンジャーエールが飲みたいにも拘らずいつも「ハチミツと林檎のジンジャーエール」と答える。彼女が洋梨よりハチミツと林檎のジンジャーエールが好きなことを知っているのに、僕なんかの我がままを通すわけには行けない。僕に美味しいジンジャーエールを作ってくれる彼女の笑顔を壊したくはなかった。
 
 僕は立ち上がり、お気に入りの紺色のカーディガンを羽織る彼女に聞く。
「もうすぐお昼だよ。こんな時間にどこ行くの?」
「散歩よ。石ころのように部屋で転がっていればいいわ」
「待って、僕も行くよ」
僕はグレーのジャケットを急いで取り出し、部屋着の上に重ねる。その際にハンガーが床にポトリと落ちた。彼女はすでに一人部屋を出て行ったが、落ちたことを認識しながらハンガーを拾わずに行くのは心苦しくなり、指先で摘まみ上げクローゼットにかけ、今年で5年目の革靴を履き部屋を出る。時計が止まってから、僕と彼女のチョコレートの距離は消えた。
「待ってよ、ねぇ」
16戸だけの小さなマンションから出て、一人街を歩く彼女の背を追う。羽織った少し長めのカーディガンを風になびかせ歩く彼女の後ろ姿は、それだけで美しかった。優しく美しい神様の涙のような存在。こんな僕には絶対にもったいない人。野生の猿が世界一の高性能パソコンを持っているようなもの。キーボードの隙間は食べカスのバナナだらけ。
呼び止める僕の声が聞こえたようで、彼女は振り向いた。無表情を装ってはいるが、素直に立ち止まり走るのが遅い僕を待っていてくれる彼女は本当に優しい。怒っていても優しさが隠せない彼女の不器用さ、僕は好きだ。だからこそこんな僕の元には置いておけないとも思う。僕という檻の中に居ては彼女が可哀想だ。
「散歩ってどこに行くの?」
「どこに行くかなんて決まってないわ。だってこれは散歩なんだもん。風の吹くまま気の向くまま道を歩くの。そしてお腹がすけばパンかクッキーでも買ってたべてもいいし、喉が渇けばフルーツジュースを飲む。散歩にルールなんてない、自由に歩くの」
僕は覗き込むように彼女の横顔を見る。
「僕がついてきたこと、怒ってないの?」
「それに怒る理由はないわ」
「でも君は今確かに怒っている。どうして?」
薄いメイクをしただけの彼女も僕に目を向ける。
「無価値な人なんていないのよ。人間には誰にだって価値があるの。私にだってあなたにだって絶対に。ただそういうものは自分では見つけづらいから、自分を見失ってしまう人もいる。だけど無価値な人なんていない。誓ってもいいわ。私は折り紙をしているあなたが嫌いじゃないの。ただ上手くいかないからといって自分を無価値だとか見限るあなたの考えが嫌なの。だから自分の事を石ころみたいだなんてもう言わないで。そんなこと思っていたら心はどんどん汚れていくわ」
彼女の真剣な口調と目に僕はうなずく。
「うん」
下を向いた僕は彼女が水筒を持っていることに初めて気が付いた。彼女は大きめの水筒を肩から斜めにかけている。
「水筒持ってきたんだ」
「そうよ、お散歩に水筒は必要不可欠だから」
「用意がいいんだね」
「まあね」
彼女は小さく首を回し頬にかかった髪を払っている。
「じゃあ紙コップも?」
彼女はベージュのバッグを開き、中を探る。どうかしたのだろうか、閉じたままの唇を大きく左右に伸ばしている。困った時の彼女の癖だ。
彼女は手を止め、諦めたように顔を上げる
「忘れたわ」
バッグを腰に当て彼女は笑った。誰に言われるでもなく水面で神秘的に咲く睡蓮のような、僕の大好きな笑顔。
「どうする、部屋まで戻って持ってこようか?」
「そんなことしなくてもいいわよ。紙コップなんてどこでも売っているだろうし、なかったら水筒の蓋で飲めばいいのよ」
「でも蓋は一つしかない。でも僕たちは二人。これは大変な問題になるかもしれないよ」
コップ代わりの蓋が一つしかないことに焦る僕の脇腹を、茶化すように彼女がつついた。柔らかい指先。
「何よ、私と同じ蓋で飲むのは嫌?」
「ううん、そんなことないよ。でも君が嫌じゃないかなと思ってさ」
彼女は背を伸ばし、何も言わずに僕の頭をゆっくりと二度撫でた。これは彼女からの「心配しなくていいのよ」の合図だ。暗い山林の一部を照らす陽だまりのような温かさ。
 僕の表情を確認し彼女は一人歩き出した。
「さぁ、一緒に歩こう。こんなに穏やかな風と穏やかな空気があるんだもん。きっと私達の間違いだって許してくれるわ。歩いて仲直りしよ」
二人の喧嘩の原因を作ったのは僕なのに、仲直りの鍵を出してくれるのはいつも彼女だ。どうして君はそんなに優しいの? 僕は心の中で彼女の背中に問いかけた。
 肌を撫でる柔らかい風に吹かれ、僕たちは街路樹が静かに並ぶ色彩豊かな街を歩いた。風邪をひいた日のマルク・シャガールが色付けしたような街。久し振りに一緒に歩く街はいつもより明るく見え、彼女の声は秋の青空のように高く澄んでいた。初めて訪れた街のように路面店を見回す彼女の姿が僕にはたまらなく愛しく、そんなこと出来るわけもないのに彼女の背中を抱き留めたくなり、その時の彼女の表情を思い浮かべ一人笑う。きっとお洒落なバーで二つ隣に座る紳士が、突然シガーをカウンターに放り出しワイングラスを頭に乗せた時のような驚愕の表情をするに違いない。
 そんな僕に秋の空の音が鳴った。
「何してるの、こっちおいでよ。美味しそうなパン屋さんを見つけたの」
美味しそうなパン屋さん。パン屋さんは食べられないよと内心でつぶやき、手を振る彼女の元へ急いだ。
 少し古ぼけた外観の店には焼けたパンの香ばしさが漂い、店の中には陳列棚にはたくさんのパンが並べられていた。パン屋の店主らしき女性と彼女の話す声が聞こえてくる。
「このパンは何て言うんですか?」
「これはプレッツェルと言ってドイツ生まれのパンなのよ。成型方法は独特で、生地を紐状にして腕を組んだように結び合わせるの。小麦粉とイースト、それに塩と水から作られていて、焼く前にラウゲン液に漬けてから焼くの。トッピングは岩塩の粗塩が普通なんだけど、私のおばあちゃんはキャラメルを塗ってくれてたわ。子供の私が食べやすいようにね」
「わぁ美味しそう。それじゃあおばさんはドイツ出身なんですか?」
「そうよ、ドイツ南部のシュバルツバルト地方で生まれて、成人してからこの国へ来たの」
「じゃあおばさんの出身地のパンも紹介してほしいな。そのシュバルツバルトってところのパンありますか?」
太り気味の女性店主は腕まくりをして彼女の注文に応える。
「その言葉を待ってたのよ。シュバルツバルトは黒い森とも言われていてね、パンもその地名を模して作られているから色が独特なのよ。ほら、これよ。シュバルツバルトブロートというパンで焼成直前に生地表面に糖蜜を塗って焼き上げるの。見た目は悪いと思うかもしれないけれど本当に美味しいパンよ。おばさんの故郷の味だからね」
「本当に独特な見た目ですね。でもいい香り」
「でしょ。ちょっと待ってて、あなたとてもいい子だから味見させてあげる。ちょっと切って来るから待っててね」
「切らなくていいよ、おばさん。私大丈夫だから」
すでにカウンターの奥に消えた女性店主の声が、店内に響く。
「心配しなくていいの。あのね、形が悪くて売り物に出来ないのがあったから、それ切るだけだから。待っててよ、お姉ちゃん」
彼女は笑い僕を見る。
「味見させてくれるって。こっちきて、一緒に食べよ」
ナッツの上に焦げる寸前の香ばしいキャラメルを垂らし焼いたパンを眺めていた僕も顔を上げ、彼女に笑って見せる。
「凄い勢いのおばさんだね。僕一人なら飲み込まれてしまいそうだ」
僕が彼女の所へ行き、パンを見ながら話をしていると女性店主は皿を持ってすぐに戻って来た。皿の上には黒い森を模したというパンが二切れ乗っている。
 女性店主は彼女の隣に立つ僕を見て、驚きの表情を見せた。
「あら、二人連れだったのね。こちらは旦那さん?」
女性店主のすっとんきょうな思い違いに彼女は笑った。
「違いますって、彼氏ですよ。まだ同棲してるだけ」
旦那ではないという事実を伝えながらも彼女は僕の手を優しく握ってくれた。きっと傷つきやすい僕が傷つかないように。そして伝えることが苦手な好意を、僕に理解してもらうために。だから僕は彼女のほのかに暖かく薄い手を、少しだけ強めに握り返す。大丈夫、僕はわかっているよ。君が望んでくれるなら僕はずっと君といる。
彼女は小さな口にパンを頬張り、僕にもパンの一切れを差し出す。よく見ると薄く切られたパンにはクリームチーズが塗られていた。白いお皿の上に寂しく乗るパンの姿に、僕は何故か子供の頃何度も遊びに行った祖父母の家の香りを思い出す。秋の夕暮れのなか椅子に座り僕に微笑む祖父母の姿。遠い日の二人の姿と香りに急に涙腺が緩み、僕は泣き出さないようパンを口に放り込んだ。彼女は女性店主を見る。
「うん、これ本当に美味しい。歯ごたえもあってライ麦みたいだけど、小麦粉の香りがする。これにレーズンとか入れても美味しそう」
「レーズン好きだもんね」
うなずく彼女に店主は言う。
「あなた鋭いわね。ドイツパンにはライ麦を使ったものが多いけれど、これは小麦粉を使っているの。フルーツワインと合わせてもいいし、あなたの言う通りこのパンにレーズンやイチジクを入れることもあるわ」
彼女は笑い、僕に視線を向ける。『どう?凄いでしょ』
僕も同じように彼女の目を見る。『君は本当に凄いよ。まるでパンの女神さまだ』
時計が止まって以来の、本当に久しぶりの視線での会話。僕たちだけの得意技でもある。
僕たちが視線だけの会話を交わしていると店主が「お似合いの二人ね」とつぶやいた。
その言葉で視線遊びは中断され、彼女はパンの注文を始めた。
彼女は決して多く食べれる方ではないが、気に入った店を見つけると食べきれないほどの量を選んでしまう癖がある。けれど彼女は全てのものに感謝の気持ちを持てる人だから、余っても絶対に捨てることはせず無理をしてでも食べきるのだ。そしてお腹がパンパンにも拘らず満足した表情を僕に見せる。その表情も僕は好きなのだけれど、彼女には無理をしてほしくはなく、小声で告げる。
「あんまり買いすぎちゃ駄目だよ。君と僕で食べきれる量を見極めないとね」
「わかってるわ」
それでも彼女はお腹の定量にクロワッサン一個分足りないくらいの量を買ってしまった。
最後に彼女が女性店主の故郷のパンをトレイに乗せると、店主は随分と喜び「内緒よ」と僕たち以外に誰もいない店内で人差し指を立て、シュバルツバルトブロートに彼女の好きなレーズンとイチジクを入れて作ってあげるとサービスを申し出て、パンが焼き上がるまで僕たちは少しの間待つことになった。そして女性店主が僕たちに一言。
「イチジクの花言葉は『実りある恋』『子宝に恵まれる』なのよ」
僕たちは顔を赤らめお互いの顔を見た。首をすくめ見つめあう二人の姿は実に滑稽なものに映っただろう。
 店から出て僕たちは噴水がある広場のベンチに座った。僕と彼女の間にはチョコレート一枚分の距離。自ら吹き上げた水で美しい造形を描く噴水の周囲を、風船を持った男の子が一人声を上げて走り、その姿を微笑み見つめる母親の姿。どんなものにも代えがたい幸福で幸せな光景に、僕はまた泣き出しそうになり涙を堪えた。
 どうして僕の感情は高ぶりやすいのだろう。世界一の船乗りでも乗りこなせない感情の波が、僕の胸の内に常に打ち寄せ続けている。
「どうしたの」
僕の意思に反して眼球から溢れだしてくる涙を拭っていると、彼女が不思議そうに声をかけて来た。心配性な彼女に僕は笑顔を見せる。
「なんでもないよ。ちょっと眠たかっただけ」
彼女も僕と同じように笑った。世界中から集めた幸せが僕の隣にある。
僕たちは小鳥が巣から旅立つくらいの短い時間見つめ合った。雲の上から杖を振る神様が与えてくれたかのような幸せな時間。しかし幸せな時間にはイタズラ猫が付いて回る。
「さっきお店の中で泣いていたでしょう」
楽しそうなイタズラ猫の声。
「泣いてないよ」
「嘘。おばさんが出してくれたパンを見て泣いてたわ」
僕は言葉に詰まる。僕は嘘をつくことも苦手なのだ。
「少し涙ぐんだだけ。あのパンがおばあちゃんが作ってくれたパンに何となく似ていたから、昔を思い出しちゃってさ」
彼女は僕から目を離し空を見上げる。彼女の心をそのまま映し出したかのような一点の濁りもない綺麗な空。世界中の人々が心にこんな空を持っていれば、争いなど起きないはずだ。天秤の上に軍事力を載せどちらが偉大かを測りあう国々の寂しさ。何故笑顔の多さでは国力を測れないのだろう。
「子供の頃のあなたも見てみたいな。どんな子だったんだろう。きっと真面目でお行儀のいい子。けど目を離すとイタズラを始めちゃう元気な子なんだろうな」
僕は自分の知る幼き日の僕と、彼女の想像上の子供の時の僕を重ね合わせる。彼女は過去を覗き込める目を持っているのだろうか。微々たる違いこそあれど、彼女が思い浮かべている僕は限りなく僕に近い。
 あえて彼女は言わなかったのかもしれないが、僕は彼女の表現しきれなかった僕を僕として決定づける欠点を口にする。
「そして誰よりも泣き虫なんだ。僕はどんな時でも泣いていた。この癖は涙の神様が僕の心の根幹に住み着いているからなんだ。でも何とかして治さないといけないね。パンを見て涙ぐむなんて駄目だ」
彼女の細く長い指が、僕の指をなぞる様に撫でた。
「それがあなたのいい所なのよ。誰よりも感受性豊かで喜びや幸せを人よりも多く感受できる。その分悲しみも多く受け取ってしまうかもしれないけれど、あなたはきっと乗り越えられる。あなたは強い人だもの」
「僕が強いだなんて実感がまるでないな」
「あなたが強いからこそ、涙の神様はあなたの心にベッドルームを作ったのよ。安心して住むことのできる壊れることのない心にしか涙の神様は住まないの。きっとあなたは神様に認められたのよ」
また言葉に詰まる僕を予測したのか、彼女は言葉が終わるとすぐに袋からパンを取り出した。
「それよりパン食べよ、焼きたてなんだって。ほらまだ温かいよ」
人を困らせることを嫌う心の優しい人。僕なんかにはもったいない。まるで安らぎの園から抜け出した天使のよう。
 僕は彼女が半分に割ってくれたパンを食べる。焼けた生地の中には彼女の大好物のレーズンとナッツがたくさん入っている。彼女にとっては宝箱のようなパンだろう。
至福の味をこぼさないように彼女は口元を抑える。
「これ凄く美味しい。ね、食べてみて」
彼女に言われるままパンを食べると、僕の口の中に香ばしいナッツとレーズンの風味が広がった。そしてメープルの甘い口どけ。
「うん、本当に美味しいね。ソクラテスの哲学のようにバランスが取れている」
「ソクラテス。あなたの尊敬する人ね」
「哲学という人の心理の本質を追い求める学問の基盤を作り上げた人だからね。でも多面的な性格を持ち合わせていたから、彼の思想態度を理解することは難しいんだ。でも着眼点を変えれば多くの見方が出来る哲学的思想からも、未だに彼の足跡を追う人は絶えない」
「私は哲学のことはわからないけれどきっと凄いことなのよね」
「凄いことだよ。そしてこのパンもそれと同じだけの凄さを持っている」
彼女はまた僕の目を見る。彼女の視線から僕は彼女の思いを感じ取った。『このパンは凄いのね。つまりどういうこと?』彼女からの優しい問いかけに僕は口を開き答える。
「幸せの味だよ」
彼女は聞く。
「幸せの味?」
「うん、君と一緒に座って同じパンを食べれるなんて、こんな幸せなことはない」
気のせいかもしれないが僕には彼女の頬が少し赤らんだ気がした。どんなメイクよりも美しい、感情のファンデーションだ。海を照らす熟す前の若々しい夕日。
「私もよ」
短いけれど嬉しさが沸きあがってくる言葉。幸福の樹になる幸せという果実が僕たちの手にポトリと落ちた。きっと胸躍るトロピカルな味。種があれば鉢に植えてみよう。将来僕らの部屋から幸福の樹が世界中に幸せの果実を落とすようになるかもしれない。
 僕が幸せな感情と戯れ目をつぶっていると、「あっ」と彼女が声を出した。
目を開けると噴水の周りを走っていた男の子がつまずき転んでいた。僕と同じ髪の色の男の子の手から手離された風船は、秋の空を目指しゆっくりと上昇していく。風に吹かれながらも健気に上を目指していく風船の行方を追っている僕の耳に、男の子の泣き声が聞こえてきた。悲しみの雲をわしづかみにして振り回すかのような泣き声。
「ああ、可哀想」
母親が駆け寄り、落ち着かせようと頭を撫でられている男の子を見て彼女は心配そうな声を出す。怪我はないようだが、涙をこぼしながら空に昇る風船を見つめる男の子。そして今日という日の宝物を手離してしまった男の子に同調し悲し気な表情を見せる彼女。小さな出来事にも大きく衝撃を受け悲しみの海に浸ってしまうという僕たち共通の不具合。
 僕は一人ベンチから立ち上がった。彼女と男の子、この二人を悲しませたまま何もせずにはいられなかった。僕は問題解決能力の極めて低い人間だ。問題を前にまた宙を仰ぐだけかもしれない。それでもいい、僕に出来ることをすればいい。
「どうしたの?」
驚く彼女に僕は笑いかける。
「ごめんね、ちょっと行ってくる。今日の宝物は飛んでっちゃったけれど、僕がズルしてもう一つのプレゼントをあげる。彼が気に入ってくれるかはわからないけどね」
僕は彼女の太ももに乗っていたパンを包んで皺だらけになった紙を手に取り、噴水から吹きあがる水の陰で泣く男の子の所へ歩いて行く。僕は振り向きはしなかったが、後ろから彼女のフラットシューズの足音が聞こえてきたため彼女もベンチを立ったことが分かり、珍しく僕を追う形になった彼女に見えるように強く背中を張った。大丈夫だよ。きっと僕だって大丈夫。こんな僕にだってできることはある。
両親が教えてくれた言葉、それが今の僕の胸の中で響いていた。『希望を持っている限り人には不可能なんてない。ただ希望を手離したその手にいつの間にか握られているもの、それが不可能だ』
 突然やってきた僕を見て男の子の母親は驚いたようだけれど、後ろからついてきた彼女を見て少し安心したようで、困ったように僕たちに笑いかけた。そんな母親に僕は頭を下げ男の子の前にしゃがみ込む。
 見知らぬ男の顔に空を塞がれ驚いたようだけれど、そのショックが相まってか僕の陰に入り込んだ男の子の涙は止まったように見えた。
「風船、残念だったね。でもきっと空の上にいる誰かが大事にしてくれるよ」
男の子はまた下を向いてしまう。この男の子にとってあの風船は大事なものだったのだろう。当然だ、子供のころ手にするものには全てに好奇心と喜びが詰まっているのだから、それを手離してしまったショックは計り知れない。
「君の風船の変わりにはならないかもしれないけれど、僕からプレゼントをあげるよ。だからもう泣くのは止めよう。下ばかり向いていると喜び泥棒という悪い人がやってきて、君の楽しい気持ちが奪われてしまうよ。だから僕と一緒に上を見よう」
僕の顔を心配そうに見つめる男の子の目。
「お兄さんは喜び泥棒じゃないよね?」
男の子は小さな声でつぶやいた。だから僕は精一杯の笑顔を作る。
「心配しなくていいよ。お兄さんは君の味方だ。だからちょっと見ててね」
「うん」
しゃがんでいた僕は片膝をつき、膝の上でパンを包んでいた厚めの紙を半分に裂き、二枚になったその紙を手早く折っていく。折り紙は僕の子供のころからの得意技で、今では生活の一部にもなってしまっているほどだ。そんな僕の手際の良さに男の子が目を月のように丸くしたのも当然のことかもしれない。
「はい、出来た」
僕は男の子の手に二枚の紙を折り重ねたひし形のプレゼントを置く。オシャレなケースや袋には入っていないけど、僕に出来る全力のプレゼント。
 男の子は不思議そうに僕に聞く。
「これ、何?」
「これはね日本という国に住む、忍者という戦闘集団が使う武器で手裏剣というんだ。忍者はこの手裏剣をフリスピーのように投げて敵を倒す。手裏剣は日本に行かなきゃ買えない貴重品だよ。ほら、こうやって投げてみて」
僕は祖父から教えられた手裏剣を投げる動作をして見せてあげる。もちろんTシャツの襟を鼻の上まで上げて口を隠して。祖父の話では口を見せないのが忍者の正しい作法らしいから。
 男の子は僕の動作を真似て手裏剣を縦にして遠くまで投げた。
それとほぼ同時に男の子は「わぁ~~~」と声を出す。手裏剣は空を切るかのように飛び、コンクリートで舗装された地面に落ちた。たった3秒ほどの空中散歩。
だが男の子はそんな急造品にも満足してくれたようで、手裏剣を拾い満面の笑みで手を振ってくれている。
「お兄ちゃん、ありがとう」
僕も男の子に大きな声を出す。
「喜んでくれたなら良かった。でも噴水の方に投げては駄目だよ。忍者の武器は水には弱いから」
男の子に手裏剣の扱いについての注意喚起をしていた僕に、男の子の母親が声をかけてきた。
「あの、ありがとうございました。あの子なかなか泣き止まないから助かりました」
勝手に変な物を渡したことに不快感を抱かれているかもと、少なからず緊張の糸を張っていた僕は母親の感謝の言葉に胸をなでおろした。
「いえ、僕の方こそ勝手なことをしてしまい、申し訳ございませんでした」
母親は笑って首を振る。
「そんなこと言わないで。それよりあなたが作ってくれた、手裏剣でしたっけ。あれの作り方を私にも教えていただけないかしら。あの子よく物を無くしてしまうし、私も手裏剣をプレゼントして喜ばせてあげたいの」
ここにも心優しい人が一人。彼女やこの母親のような人ばかりの世界なら、僕だって翼を広げ大空を飛べるはずだ。吹く風は透明な青で、見渡す世界は木々の緑。その中を人々がバスケットにパンやフルーツを詰め込み歩いている。平和の色だ。
「いいですよ。二枚の紙を使うから簡単な方ではないけれど、きっとすぐに覚えられますよ」
そして僕は母親の隣に立つ彼女を見る。『もう一度折るけどいいよね?』
彼女はうなずく。『もちろんよ。是非折ってあげて』
僕と彼女の間だけの視線での会話。彼女はバッグから薄い四角のメモ帳を取り出し、二枚を切り取り僕に渡してくれた。でもさすがに噴水の横の地べたで紙を折っていたら不審者に見られるだろうから、僕たちはさっきまで座っていたベンチまで戻り、日本に数多くいるという忍者の武器である手裏剣の製作方法を伝授する。僕が祖父から教わった秘伝の製作法だ。
 そして僕はメモ用紙から折り紙へと存在価値を変えた紙を説明を交え、ゆっくりと折りこんでいく。口下手な僕の説明が男の子の母親にどれだけ伝わっているのかはわからないけれど、僕は僕なりに精一杯丁寧に教える。
なかなか折り方を理解出来ないようだったため、僕は折り終えた手裏剣を何度も開き、男の子の母親が一人でも手裏剣を折れるように教えてあげる。かなり時間が経ったように思えたけど、初めて一人で手裏剣を完成させた時の母親の顔は、僕が手裏剣を渡した時の男の子の顔と同じで、喜びに満ち溢れていた。
だけど男の子よりもその母親よりも一番喜びを感じていたのは僕だったのかもしれない。何の役にも立たないはずだった僕の折り紙で、こんなに喜んでくれる人たちがいたのだ。嬉しくないわけがない。重力に負けず空の果てまで飛んでいく夢の紙飛行機を折り上げた感覚。男の子の母親は僕の手を取る。
「ありがとう、私物覚えが悪いから大変だったでしょうけどもう覚えたわ。今晩帰ったらあの子に作ってあげるの」
「頑張ってください。一度覚えればきっと忘れないから」
「作れなかったら解体してみるわ」と言い、男の子の母親は僕が教え終わるまでに折った手裏剣を全て持って行った。もしまた会うことがあれば笑顔で手裏剣作りに成功したと報告してくれることだろう。
 まだ手裏剣を投げて遊んでいる男の子の所に戻る前に、母親は彼女の耳に顔を寄せた。何か話しているのだろうけど、僕には全然聞こえない。
「今日は本当にありがとう」
最後に男の子の母親は僕たちに手を振り去っていった。手をつないで歩いて行く男の子と母親の姿に、これからもどうか幸せであってほしいと僕は願った。今日という日は二度と戻ってこない、だから今を大切に、と。
 遠ざかっていく二人の姿を黙って見ていた僕に彼女が言う。
「お疲れさま。座ろ」
僕にとっての幸せな時間をくれる彼女。
「うん、そうだね。座ろう」
椅子に座った彼女は、すぐに水筒の蓋を開けそこに水筒の中身を注いだ。コポコポコポ。誰かが自分のために水筒から飲み物を注いでくれる音は、オーケストラの名演と同じだけ胸を打つ。僕の隣で彼女によって奏でられる幸せのハーモニーに、僕はまた泣きそうになった。
僕の胸でバスドラムが鳴っている。
「はい、どうぞ」
水筒の蓋を手渡された僕は彼女に聞く。
「あのお母さん、君に何て言ったの?」
「あなたのこと、『素敵な人ね』って」
蓋の中の液体に映る僕の顔を見ながら口を開く。
「信じられないな」
「私はあのお母さんの言う通りだと思うわ。あなたは素敵な人よ」
ためらうことなく僕のことを素敵だと言ってくれる彼女。恥ずかしくなった僕は話を逸らすため、また質問をする。
「これは何を入れてくれたの?」
「大丈夫。心配しないで飲んでみて」
僕は蓋の中を三分の二程満たしている液体を飲んだ。心の底から優しい彼女が言うのだから飲んでも間違いはない。
「あっ、これ」
僕は短く声を出し、また蓋に口を付ける。僕の口の中に流れ込んで来る良く冷えた液体には洋梨とジンジャーの味がして、その二つの味を支えるようにレモンの風味。僕の大好物だ。
「洋梨のジンジャーエール」
何も言わず彼女は笑ったままうなずいた。
「僕がこれ好きなこと知ってたの?」
「うん」
「でも言ったことないよ」
「前に二人でアロマショップに行ったでしょ。ほら、プルメリアとハイビスカスのアロマオイルを切らした時に。そのお店にいろんなジンジャーエールのボトルが置いてあって、あなたアロマオイルを探しもしないで、ずっと洋梨のジンジャーエールのボトル見てたから、『あっ、きっと洋梨好きなんだな』って」
「バレてたんだ」
彼女の顔にまたイタズラ猫が表れた。近づくと飛びつかれそうな危うさと愛しさを持つ表情。
「バレてたのよ」
また僕たちに向かい柔らかな風が吹いた。僕のミスを全て拭い去ってくれるかのような透明な肌触りの風。
「そっか、そういうところも治していかなくちゃ駄目だね。もっとしっかりしないと」
洋梨のジンジャーエールを飲む僕を彼女は見つめている。嬉しさと同時にくすぐったさを感じる視線。
「何?」
「さっきは格好良かったよ」
僕は彼女の顔から視線を少し下げ、白い首を見る。
「そうかな」
「あなたは変わりたいと思っているんだろうけれど、そのままでいいのよ。あなたはあなたのままが一番いい」
「でも君の言う通り折り紙ばかりしていても仕方ないから、怖がってばかりいないで社会に足を踏み出さなくちゃ」
青い空を見上げる僕の耳に、彼女のジャコビニア色を思わせる優しい声が届く。ピンク色の花束だ。
「社会に出るということは、働きお金を稼ぐだけではないんじゃない。あなたは素敵なプレゼントであの親子に笑顔を咲かせてあげた。人の助けになり、人を笑顔にさせてあげる。あなたが今したことだって立派な社会活動だわ。周りの声に惑わされないで。あなたにはあなたの生き方がある。あなたは幸せのアロマフューザーのような人だから、いつでもどこにいても人を笑顔に出来る。それでいいじゃない。社会が作ったまとも人間像の型枠になんか入らなくたっていい。あなたの思うように生きて、あなたが出来ることを頑張ればいいの」
彼女からのありがたい言葉に僕は感謝の気持ちと一つの疑念を返す。
「ありがとう。でも話をぶり返すようだけどお昼前の君は、折り紙ばかりやってる僕に怒ってたよね」
イタズラ猫は少し困った表情を見せる。彼女に厳しいことを言ってしまっただろうか。急に謝りたい気持ちが沸いてきたが、彼女は微笑んだまま僕の頬を軽くつねった。
「いいじゃない。さっきは少しビターな気持ちだったの。でももう大丈夫、今日あなたとお散歩して気づいたから」
「何に気づいたの?」
彼女は僕の顔を正面から見て笑顔で一瞬目を大きく広げた。幸せの湖のように綺麗な瞳。
いま彼女が何と言ったのか伝わり、心の中の僕は大きく跳ねた。
 僕たちの間でおなじみの視線のキャッチボール。いつからか、僕たちは言葉など使わなくても気持ちが通じ合うようになった。僕は彼女の言葉を受け取り、何を言いたいのか理解する。きっと彼女の意思通りの言葉を僕は受け取ったはずだ。だからこそ言える。
「こんな僕でいいんだね?」
「そんなあなただからいいのよ」
細い手が僕の背中を撫でた。
「ありがとう」
「ついていくわ。どこまでも」
チョコレート一枚分の距離を開け寄り添う僕たち。この距離が縮まる日もそう遠くないはずだ。穏やかな風に揺れる彼女の髪の毛が僕の肩に触れる。フェンネルと一吹きだけした香水の香り。僕は彼女の優しい香りを吸い込み、口を開いた。
「なんか今日なら新しいスタートを切れそうだ。帰りに電池を買って行こう」
彼女は首をかしげる。大好きな愛しの仕草。
「電池?」
「まずは部屋の時計を動かすんだ。僕たちが動き出すんだから、あいつも一緒に動かしてやらなくちゃ。あのカチカチと刻む秒針の音も、今じゃ無いと寂しいし」
「うん。そうだね、ずっと私たちの時間を刻んできた時計だもんね。電池を取り換えるついでにしっかり拭いてあげよう」
「ホコリの毛布をかぶってるからね」
フレグランスショップの店先からフランス・ニースのバラを使った香水の香りが風に乗り、僕たちを包んだ。硝子細工のように綺麗な二人だけの時間。僕にはカチカチという秒針の音が聞こえた気がした。
「ホントにいいスタートが切れそう」
「うん、本当に」
バラの香りがまた一吹き。彼女はベンチに手を付き首と足を延ばしている。
「こんな時間が、毎日が続けばいいなぁ」
「大丈夫。きっと続くよ。続けていこう」
僕は立ち上がり彼女の手を引く。
「行こう」
足をそろえ彼女は立ち上がった。。
肌を柔らかな風が撫でる中、チョコレートの距離で僕たちは互いの目を見る。
『僕に付いて来て』
『うん、どこまでも』
カチカチ 秒針の刻む音がまた鳴った。

                        芝本丈


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