http://www.2ko2kora2ko6256.com シバジョーのブログ: 春への扉

2017年9月29日金曜日

春への扉


また読み物を一つ置いておきます。
また美術品を使わせてもらった読み物です。
ゴッホ作の『タンギー爺さん』とヨハネス・フェルメール作の『ヴァージナルの前に座る若い女』を登場させました。





お時間があればお楽しみいただけると嬉しい次第です。
 注 けっこう長いのでお読みになる人は覚悟してください。



     ・春への扉

私は今日も扉を叩く。
開くことのない扉などない。どんなに頑強な扉でも誠意を持って叩けばいつか開くときがくる。そう信じて4日目。今日も扉が開かないであろう予感に、私は逃げ出したくなる気持ちを抑え、扉を叩き続ける。
 鉄を元に作られた扉を叩く音は、高く響くことは無く私の足元に落ちるだけ。落ちた音はきしむ床の隙間を抜け土に沈む。
「おおい、私だ。開けてくれ」
鉄の扉の奥から部屋の主の声が聞こえる。
「また来たの?あなたも暇な人ね」
「暇なもんか。私の店には客が絶えない。それも嬉しいことに彼らには多くの希望があるんだ。希望や夢を抱き、掴み取れる可能性は極めて少ない星に手を伸ばしている。そんな彼らと話をするのは私の楽しみの一つなんだ」
ヴァージナルの音色に女の声が乗る。
「じゃあさっさと帰って夢追い人たちの苦労話でも聞いてあげなさい。そして高い画材を売りつけるの。それがあなたにお似合いよ」
「そんなことは言わないで私の話も聞いてほしいんだ」
何度もこの扉を隔て口論してきたのだから、私にはもうわかっていた。気の強そうな声を出している彼女の内側には、繊細な弦が貼られている。音を出すために弦を弾くのをためらうほどの繊細さ。それを隠すように彼女は声を張る。
「いいからもう帰って。あなたと話すことなんて何もないの」
怒る彼女に聞こえるよう私はもう一度扉を強く叩く。私は人を怒らせるのが得意なのだ。
「君が私と話をしたくないことは知っている。だが私には君に話したいことがたくさんあるんだ。君が考える、君のための理屈が正論として通るこの部屋にいては、君のキャンパスは薄汚れていくだけだ」
私の言葉にヴァージナルの音色は止み、彼女の吐息のような静寂が私を包み込んだ。無くしてしまった家の鍵を一人で探す子供の背中のような寂しい静けさ。
 私は理由もなく下を向き半歩後ろに下がる。すると突然鉄の扉が開かれた。ジンクホワイトに薄くフレッシュピンクを混ぜ合わせた顔色の女性が顔を覗かせている。美を求めるために余分なものを削ぎ落とす前の素朴な顔。一切の色付けがされていないがゆえに、彼女には一欠けらの美しさがあった。
「何?また私に説教でもする気なの?」
彼女は怒っている。その理由は簡単にわかる気がしたが、私はあえてそこから目を逸らす。年老いてまで責任を負うことは、足枷を増やすことと同じだ。生きることにより増えていく足枷は、もう私は増やすことも出来ないほど多く身に着けている。
「説教ではない。それより見てごらん、降り続いていた雨がようやく止んだよ。地上に降り落ちた天からの雫が春の日差しに照らされている。私と少し外を歩かないか?」
彼女は眉間に皺を寄せ皮肉に笑う。
「どうして私があなたと歩かないといけないの? 理由は?」
「理由なんてないよ。ただこんな部屋に閉じこもってヴァージナルの音を奏でているよりは、私と外を歩く方がまだ有意義な時間が過ごせるから誘っているんだ。時には大地が奏でる自然の音を聞くのもいいものだよ。そうすれば殻に閉じこもっているのがきっと嫌になるさ。だからひとまず手を止めて外の空気を吸うんだ」
「それは理由というのよ」
「そうかな?」
「きっとそう」
短い言葉の後、彼女は自分の姿を見下ろす。服にエルテンスープでもこぼしたのだろうか。
「困ったわ?」
私は黙ったまま彼女の言葉の続きを待つ。
「あなたのお誘いに興味を引かれていることは否定できない。たまに外の空気を吸うことも悪くはない。でも駄目ね、この服は私のお気に入りなの。この服を着ていつまた雨が降りだすかもわからない外にお出かけすることは難しいわ。冷たい雨に打たれてこの服を濡らすのも嫌だし、その・・・」
何故か彼女は言い淀んだ。喉を詰まらせたように私を見る。もの目には申し訳なさの影がチラリ。
「何だい。言ってごらん」
彼女の大きな目で瞬きが二回。刹那の瞬間を撮影するカメラのようだ。
「これだけ私にとって悪条件が揃っている中で、それでも私を外へ連れ出すだけの魅力があなたには無いわ。残念なことだけどね」
夜の街に佇む街路灯の気持ちが私の内面と重なる。老いてもなお女性から断られることは辛く悲しい。だが老いとともに得た経験により傷は浅かった。
「それならば私はいないものと思って歩けばいい。私の事は忘れ歩くんだ。そして君は雨が上がった綺麗な道を歩く途中で気づく。こんなに美しい道を歩いているのに私は一人。ガラスの上を弾み踊る水滴のように瑞々しい鳥たちの鳴き声を聞き、君は急に一人が寂しくなる。そして、ひび割れた油絵のような気持ちで君は後ろを振り返る。そこには老人が立っていて、君は仕方なくも私に近づき一緒に歩く。それでいいじゃないか」
鉄の扉から顔を覗かせる女性の顔に好奇心が走り、薄く笑う。
「あなた女性と付き合ったことは?」
「ないよ、私の記憶する限りでは一度もないな。だから妻も子もいない」
女性は扉を大きく開き、顔を崩して笑った。
「でしょ?私こんなに女性を誘うの下手な人初めて見た。もうちょっとカッコいい言葉使わないとダメだよ、お爺ちゃん」
私は貶されたのだろうか。だが笑う彼女の顔に私を毛嫌いするような感情は見られない。私の誘い文句が酷いということは否定しないが、彼女が緊張の糸を緩めてくれたことに安心した。安心が傍らにある時、人生は充実を見せる。
 私は笑い続ける彼女に聞く。
「私の言葉はそんなにおかしかったかな」
「女性を誘ってるのになんだか腑抜けてて、それでいて強気でもあるから、聞いててお腹こちょばされてるように笑えてきちゃって。ごめんね」
小さな窓から差し込む健気な春の日差しと、暗い廊下で一人笑う女性。そのコントラストに私は掃き終えたホウキから宙に舞い出すホコリを重ねた。寂しい美しさ。悲しみはなくともそこには拭いきれない寂しさがあった。
 彼女は腰を折ったまま右手を上げた。
「何か久し振りに笑わせてもらったわ。そのお礼ってわけじゃないけれど、いいわ、一緒に歩いてあげる。何か私に話したいこともあるみたいだし」
「ありがとう」
彼女はようやく顔を上げると私の顔を見て、それから流れるように私の足元まで視線を泳がせた。
「今のは何だい」
ゆっくりと首を振る彼女。
「忠告は必要ないみたいね」
「忠告?」
「そう、悪い事しないようにって忠告よ」
彼女は部屋に半歩足を踏み入れ、振り返った。
「準備してくるから少し待ってて」
鉄の扉の前に再び一人残された私はため息をつく。今の私の姿を最近店によく来る彼ならどう描くだろう。きっと紫と黄緑色を点描させた背景に立つ私には赤と青緑を使い、ため息には青紫と黄色。後の世で後期印象派を代表する画家として知られる彼が描く私に思いをはせ、彼女を待つ。
 十数分後、外出の用意を終えた彼女の手により鉄の扉はまた開かれた。薄暗い廊下に立つことは辛いものがあったが、扉が開き出てくる誰かを待つという希望があると、廊下にも暖炉の暖かさが広がる。存在はしなくとも私を内側から温めてくれる暖炉。
必要としないかもしれないが、この暖かさが彼女にも伝わればいいと私は思う。どんな局面に立つにせよ、内面が暖かい時は幸せに触れていられるから。
 十数分待たされた後、外出の用意を終えた彼女の手により鉄の扉は開かれた。三日ぶりに美味しい紅茶を飲んだかのように、上機嫌に開いた扉の前には先ほどと同じ服装の彼女。万が一の雨にも濡らさないように、服を着替えていると思い込んでいた私は十数分前と一点も変化もない彼女に言う。
「着替えているものとばかり思っていたよ」
「着替えようと服を選んでいたのは確かよ。でも駄目ね、今日は服が私を招いてはくれなかった。こんな日は無理に選ばない方が正解なの」
「その原因にあるのは私かな。扉の前で待つのが素敵な紳士ではなく私であったため、クローゼットに並ぶ数十着の服たちは君に着られることを拒んだ。それはつまりは君の心の表れだ」
「そうじゃないの。確かにあなたが素敵な紳士より見劣りするのは事実よ。まだ誰も突き止めてもいない宇宙の真理のように確たる事実。でもそうじゃない。私は服を招くことが嫌なの。服を着るということは一種の意思表示であって、私という人間を周囲に知らしめる行為に近い。その行為には着る側と着られる側の一致が必要で、私だけの意見で着る服を決めても何だか一体感が出ないの。そんな時はどんなに高級な服でも駄目。美味しくないキャラメルを口の中に放り込んだ気分になっちゃう」
理路整然と服を着ることに対する理念を語っていたかと思えば、突然キャラメルという表現を使う。不思議な女性だ。
「君の言う事は半分理解した。残りは私自身が納得できるまでに時間が掛かりそうだ。だからそれは家に戻ってから考えることにする。それより早く行こう。君の部屋からもこの薄暗い廊下からも抜け出して、春の光を浴びるんだ」
「でもやっぱり雨が降らないか心配だわ」
「心配ないよ。雨が降って来るなら両腕を広げ全身に浴びてやろう。春の雨に打たれることも人生の楽しみの一つなんだから」
「お年寄りって面白い方が多いけれど、あなたは特別ね」
私は隙間風すら吹きそうな老いた胸を張る。
「たくさんのことを経験してきたからね。生きるほどに経験は積まれ、私という個人が確立された。確かに特別なのだろうね。君と同じように」
「私も特別?」
「特別さ。誰だって特別なものを持っている。特別であるがゆえに人は悩み成長していくんだ。わかるかな、悩みを持てることは特別な人間の証なんだ」
不思議そうな顔を見せる彼女を連れ、私は歩き始めた。薄暗く冷たい廊下の先にある春の日差しを求めて。
 外には春の日差しが満ち満ちていた。穏やかで陽気な空気がステップを踏み踊り出す、春という贈り物。毎年我々の元にやって来るのに、どんな筆と絵の具でも完璧に描くことの出来ない、愛しい空気と春の色。
眠くなる甘さに抱きしめられている私の隣で、彼女は冬の布団から起き上がった春のように、眠たげに目をこすっている。
「どうだい、春の肌触りは」
「私にはまだ刺激が強いみたい。春の色彩が靴も拭かずに私の中に入って来る」
新緑から一粒の雫が彼女の髪に落ちた。だが彼女にはその自然のイタズラを気に留める様子はなく、広がる春の隅々に意識を向けているようだった。
春の上に描き出されたような彼女の色彩に私は目を奪われる。自然と美の融合、人類が先の未来まで追い求める芸術品の香りがここに。
「で、どこに行くの?」
私は彼女に聞き返す。
「君の好きな色は?」
質問に質問で返した私に対し、更に質問をかぶせることは意思に反するらしく、彼女は考える表情になった。困惑の色を浮かべているが、それも仕方のないことだ。
 意味不明な老人の質問に、春を見上げながら彼女は答えた。
「青ね。海のような青が好き」
彼女らしい言葉に私はうなずき、新緑が芽吹き生命の音を奏でる並木歩道を指さす。
「ウルトラマリンブルーだね。フェルメールの愛した色だ。それならばあの道を行こう」
「どうして青ならあの並木道なの」
「深い理由はないよ」
彼女は笑い私を見る。
「浅くても理由はあるんでしょう。私はそれを知りたいの」
「答えに焦がれるほど、知った時の落胆は大きいよ。なんだ、こんなつまらない理由だったのかと」
「だから聞きたいの。答えに焦がれ焦燥の吐息を聞く前に」
「困ったな。君はすでに強く答えを望んでいる」
歩き始めた私の後ろを、彼女は風のようについてくる。目を覚ました花々の香りを乗せた春の風のよう。
「ねぇ、教えて」
「君が好きだと言った青と、並木道の色彩関係が美しかった。並木道の黄緑色、そして君の選んだ青。黄、緑、青これらは色彩を表す際に横一列に並ぶ色なんだ。素晴らしい回答だった」
「イランイラン、カモミール、ジャスミンみたいね。横一列に並んでいて互いを引き立て合うの」
「それは何かな?」
三つの言葉の意味や関連性を理解できていない私の反応を見て、彼女はずる賢く笑う。
「アロマよ。フローラル系の香りで私が好きな三種類。代表格のローズやラベンダーもいいけど、やっぱり私はこの三つが好き」
「意外な一面だな。君が香りに詳しいとは」
「人間は多面性の生物よ。ヴァージナルを弾くだけが私じゃないの」
私は後ろを歩く彼女を見る。
「いい日差しだ。春を歩こう」
 私たちは春を歩いた。春の並木道を歩き、春の景色を見て、春の香りを思い切り吸い込む。私たちは成熟前の空気に喜び、キャンパスに薄く暖かい春の色を描いていく。冬の名残を残した冷たい川のせせらぎの音が気持ちよく耳に届き、部屋から出ることを嫌がっていた彼女も春を満喫しているようだ。遠慮がちに手を開き歩く彼女に涼やかな風が吹き、それを受け入れるかのように一人笑う。その姿に私は風にそよぐ一輪の花を思った。
 私は目的の店に行くため街のメインストリートを指で示したが、彼女は首を横に振る。
「久し振りに部屋から出てばかりの私には、まだ人通りの多い道は辛いわ。それより私ちょっと行きたいところがあるの。道案内の役、少しの間だけ変わってもらってもいいかな?」
私の第一の目的は、部屋でヴァージナルを弾き続けていた彼女を外に出してやることだった。それが果たされた今、彼女の好まないメインストリートを歩く必要は何もない。それよりも彼女の道案内に期待を寄せる私がいた。
「いいよ、好きに歩くといい」
「ありがとう」
今日初めて私の前に立った彼女は足取り軽く、街のメインストリートに真っすぐ続く並木道を外れ右に折れた
 並木道を外れた私たちは簡易に舗装された道を歩き、街にクモの巣のように走る路地の一つに入った。いつもは湿っぽいこの街の路地も、今日は春に抱かれ柔らかな表情を見せていた。夕焼けに赤く染まりコーヒーと景色を楽しむ老人の顔のよう。
 彼女はそんな街の路地を足早に歩いて行く。後ろに年寄りが歩いているのも忘れたのか、振り向きもしない。表通りで人気のパン屋の厨房からはブリオッシュを焼く香りが漂い、息を切らしながらも私は好物の香りを吸い込み、水の中を泳ぐように彼女を追う。
 そろそろ音を上げそうになっていた私を気遣ってくれたのか、路地裏の素っ気ない広場の片隅で彼女は足を止めた。広場のベンチには街からあぶり出されたような人間達が座り、それでも陽気に会話をしている。この街の人間は人生に暴風が吹き荒れようと、陽気な心を捨て去らない。自慢の街に座り、自慢の街の空気を吸う。それこそが幸せの形なのかもしれない。街の端で人生の真ん中を歩く彼らから目を離し、私は地味な建物の薄く汚れた壁に耳を寄せる彼女を見る。
「そこで何をしているんだい」
眠るかのように壁に寄り添っていた彼女は目を開き、黙って私を手招きする。早くこっちに来て私と同じようにして、と声を出さずとも私に命じる意志の強い招き。
 苦笑いを浮かべ私は彼女の形を真似、壁に耳を寄せる。目を閉じることまで真似る必要はなかったのだろうが、壁に耳を当てる行為は必然的に目をつむりたくなるもので、私は必然の衝動に歯向かうことなく目を閉じ、壁の内側の音を探った。
 室内からは虫の音のように連続した機械音が聞こえて来た。彼女よりずいぶん長い時間を生きてきたため私にはすぐに音の正体が分かったが、楽しそうにこの音に興じる彼女に要らぬ気を使い、私は答えが分からない振りをした。
「この音は何だい」
彼女はすぐに振り向き私を見る。私と彼女が壁に耳を当てたままの鏡映りの体勢になり、年老いた私は恥じらいを感じたが、彼女は笑って答える。
「わからないの?信じられない。ミシンよ、ミシンの音」
私の予想通りの答えだった。
「ミシンか。それでこの音は何か特別な物なのかな」
小さく頷きかける彼女。こんなおかしな行為を楽しんでいても、彼女から知性の色が抜けないのが私には不思議だった。知性的な人間は何をしても知性を失わず、むしろ研ぎ澄まされてさえ見える。私が持たないものに嫉妬を感じないでもなかった。
「ここはね、ミラノでも有名な仕立て屋さんのお店なの。目が飛び出るような値段の布に躊躇なく線を引いて躊躇なくハサミで裁断する。そして依頼人の身体に合うように細かな調整を積み重ねた上で、ミシンで縫っていくの。私はその音が大好き。理由はないけれど私の内面に染み入ってくる音なの」
私は息をひそめもう一度壁に耳を寄せる。連続して布を縫うミシンの機械音から、彼女の言うものとは違うのかもしれないが、確かに愛しく暖かな音にも受け取れた。耳に続く音がソーダ水で薄めたスコッチのように、ほのかに私を酔わせた。
「どう?」
彼女から発せられた短い言葉も、壁から伝い漏れるミシンの音と同じように私の心を揺らす。恋愛感情ではなく人間的・心理的な感情が彼女に惹かれていることを私は知る。
「うん、落ち着くね。母親が作ってくれたココアのように心が安らぐよ」
彼女は淡い笑顔を浮かべる。
「私子供のころから辛いことがあると、ここに来てたの。そしてスカートが汚れるのも気にしないで座り込んでこの音を聞いていた。なんでだろう、わからないけれどこの音が私の支えだった。枯れ葉のように心が傷んでも、ここに来れば立ち直ることが出来たのよ。私は強くなくたっていい、弱いなら弱いなりに生きていければいいって思えたの」
彼女は言葉を止め、白い手も壁に寄せる。壁に貼りつくような体勢になった彼女の目から乾いた涙が落ちたように私には思えた。
「でも、いつの間にかここにも来れなくなっていた。あんなに好きな音だったのに。空っぽになるほど、空虚な自分が愛しく思えていたのかも。ここに来ちゃ駄目、来たら満たされて前を見る義務に悩まされるって。愛しい音から自分を切り離して、私は安全な私の中に閉じこもっちゃった。そしてそんな自分をごまかすようにヴァージナルを奏でるの。生きているという形を保つために」
私は指の先で壁にこびりついた茶色い汚れを削る。
「どうする?もう帰ろうか」
暗い声を出した私に彼女は笑う。
「ここまで来てどうして帰るの?お爺ちゃんが私を案内してくれるんでしょ。ここのミシンの音も聞けたし、私今日はどこへでもついて行ってあげるわよ」
「そうか、私はてっきり君が落ち込んだものと思っていたよ」
彼女は腰に手を当て私の顔を覗き込む。
「どうして? 私が落ち込むのは朝のスープが美味しくなかった時だけよ」
「私は妻の機嫌が悪い時に落ち込むよ。特に起き掛けに不機嫌な妻を見るのは最低の気分だ」
「あなたさっき妻はいないって言わなかった?」
「ああ、言ったよ」
口を半開きにして固まる彼女に私は言葉を続ける。
「私の頭の中にはしっかりと妻がいるんだ。私がダイニングに画材を持ち込むと妻はいつも怒る。『その油臭い絵の具をここで使わないで』『汚れた筆をテーブルの上に置かないで』とね。妻にとっては私の行動の全てが憎らしいのだろう」
「リビングは奥様の所有地帯なのね」
老人のたわごとにも耳を傾けてくれる彼女に感謝の花を一輪。
「それでも私が席を離れずにいると、妻は怒り私の頭に作りかけのグラーシュを鍋ごとかけるんだ。全く、酷いことだよ。まぁ想像上の妻だけどね」
「おかしな人ね」
「妻の事?」
「いいえ、あなたの事よ」
私は背を伸ばし春を一つ吸い込む。ヒメオドリコソウの香りを運ぶ春の味。
「それならよかった。さぁ、行こう。少し道を戻ることになるがいいだろう?」
「それも悪いことではないわね」
 息を切らせて始まった寄り道で、私たちは安らぎの森に椅子を置き息を落ち着かせ、再び歩き始めた。足は軽く、街には透明な華やかさが満ちているようだった。
 彼女は本当にこの街に来たのは久しぶりのようで、街の至る所に目を向けていた。色を選ばずとも洗練された色合いの街。そんな街が彼女には懐かしくもあり、変わりゆく外観に少し悲しみも感じているように見えた。
 先日オープンした黒を基調としたシックな店内に色とりどりの花を並べた花屋に足を止める彼女。小ぶりな扇を咲かせた花を彼女は愛おしそうに眺めている。
「もう11時だよ。早く行かないと店が混雑してしまうかもしれない」
「待って、この花を買っていくわ」
「帰りに買えばいい。まさか全部売り切れることなんて無いだろうし、花を持ち歩くのも邪魔だろう」
彼女は花屋の女性店員と顔を見合わせた。声を出さずとも伝わる会話をしているようだ。
彼女は首を傾け女性店員はそれにうなずいている。
「花との出会いは理屈では片付けられない神秘性があるの。出会い心惹かれた時に懐に包み込んであげないと駄目。人間と同じね、機会を逃せばどれだけ叫んでも思いは胸に響かない。抱きしめたいときに抱きしめてあげなくちゃ」
色とりどりの花の中に立つ彼女に、私は何も言えずに立ち尽くした。論理的ではないが倫理に触れる彼女の心の指先。あと何十年筆を持てば私はこの透明な美をキャンパスに描くことが出来るのだろうか
 結局彼女は三種類の花を一輪ずつ買い、身体に添わせるように当て私の隣を歩いている。
フランスパンのように花を抱く彼女と、遠くに見えるスカラ座の話をしていると、ようやく私の目的とする店が見えて来た。
「ああ、あった、あった。あそこだよ」
歩道の内側を歩いていた彼女からは店が見えないのか、私の前に顔を出し歩道の左側を埋め尽くす店に目をやる。
「ファッション関係の店しかないみたいだけど、私を案内したかったのってそういう店?服でも買ってくれるつもり?」
私は首を振る。
「そんな気はないよ。よく見てみなさい。ほら、高いヒールの女性が歩いている所」
私が指をさしたネイビーのトレンチレインコートを着た女性に、彼女の目が向けられ、瞬く間に女性から灰緑色の外観のカフェに視線を移した。一瞬しか彼女の視線を奪えなかった、この春最先端のファッションに身を包んだ女性の背中の切なさが私に染み入る。
「この街らしいカフェね」
「あのカフェは創業80年を超えるカフェでサンタンブロージュという店だ。世界的有名ブランドのヴェルサーチの創業者も通っていた店で、今でもファッションやオペラ関係者が多く通うミラノを象徴するカフェさ」
「そんな凄いカフェがこんな所にあったんだ」
「この街の近くに住んでいるのに知らなかったのかい?」
澄んだ横顔は私を映し出すかのよう。
「言ったでしょ。私、大通りとか人の多そうなところは最近はあまり歩かないの。でも何だかいろんなお店があって神様のタンスの様な街。どの引き出しを開けても素敵なものが詰まっていそう」
「でもたまには来てみて良かったんじゃないかね」
「悪くはないわね。隣に立つ人がうるさい男じゃないからかもしれないけど」
「確かに君の周りにはハエのような男たちが寄ってきそうだ」
私達は笑いながら老舗カフェの扉を開けた。
 硬い椅子に腰を降ろし、私は驚いたようにメニュー表に釘づけになっている彼女を見る。
「好きなものを選んでいいんだよ」
「私にはわからないものが多すぎるわ。あなたが決めて」
私は手渡されたメニュー表を閉じてテーブルに置き、彼女に聞く。
「ではコーヒーとアイスでいいかな? アイスは種類が多いけどどうする」
スズメの瞬きのような一瞬の間が私たちに流れ、彼女は笑みを浮かべる。
「ここはあなたが案内してくれたお店でしょう。だからあなたに任せるわ」
私はうなずき、店員が私の近くを通るのを待つ。店員を呼ぶことも可能だったが、私は忙しそうに客に対応している店員を呼びつけてまで注文するのが苦手だった。慌てなくてもコーヒーとバニラアイスは私たちの元に必ず来るであろうし、彼女も待つことを苦としない人間のように思えた。それならばわざわざ店員を呼びつける必要はない。このような女性といると、待つことさえ有意義な時間に変えてくれる。
 言葉を交わし合い数分後にようやく店員を捕まえ、私は二人分のコーヒーとアイスを注文した。長年この街の中心で店を続けてきただけのことはあり、おかしな組み合わせの私と彼女に対しても手際のよい愛想よさで我々の注文を受け、風のように注文票を店の奥に運こんで行った。
彼女はその店員の姿がカウンターの隅に消えるまで目で追い、忘れていたかのように私に目を向ける。
「いい店ね」
「この街で私が二番目に気に入っている店だからね」
「あなたにとってここは最上の店ではないのね」
彼女はテーブルに肘を乗せ、猫のように丸めた手の甲に口を寄せた。おそらく意識せずに整えられたその姿勢は、挑戦的な空気がまとわれていた。カフェで向かいの席に座る女性たちは皆、手練れたカジノディーラーの顔を見せる。
「私の中で最も上にランク付けされている店も老舗でね、コーヒーが格段に美味しいんだ。でも残念なことに、私はあの店に女性を連れていく勇気はないな。コーヒー好きの女性ならまだいいかもしれないが、ほとんど中身を見せてくれない君をそこに連れてはいけなかった。だからその店から一つ階段を降りたここにした。この店は女性からの人気も高いと聞いていたからね」
「私はコーヒー好きよ。下手なお世辞よりも私の心をなだめてくれる」
「それなら後でその店の住所を教えてあげるよ。今度行ってみるといい」
「そこの住所を知る必要はないわ」
私が目を見ると、彼女はわざと首をすくめる。
「またあなたに案内してもらえばそれで済む話でしょう。住所を書きインクを減らす必要はない」
「嬉しい言葉だけど、私に優秀なダンディズムを期待してはいけないよ。女性をエスコートした経験の極めて少ない人間だからね」
「その割には今日は水晶玉のように綺麗なエスコートをしてくれているじゃない。好きよ、私。あなたのエスコート」
私は褒められた嬉しさを隠し、フォーレのレクイエムを弾くように静かに言葉を続ける。
「路地裏で息を切らせはしたがね」
「あれは私が急いだから。あなたのせいじゃない」
「でも安心したよ」
形の悪いワイングラスのように顔を傾ける彼女。
「せっかく久し振りに外を歩くのに、こんな老人がいては邪魔になると思っていたから、君に不快感を与えていないことに安心したという事」
「あなたは年老いている分、そこら辺の気取ったお坊ちゃま達より多くのことを教えてくれる。あなたと歩く春の街はここ数年で一番綺麗だった。年を取ったからって自分の価値が落ちたと思わないでね」
何故か彼女に諭され、私は小さく礼を言う。
「ありがとう」
 その時、私の言葉がかすむくらい大きな女性店員がテーブルの横に立ち、私達が注文したものを置いていった。綺麗な店内に並べられた品のあるテーブルの上に乗せられた、二つのコーヒーと二つのバニラアイス。それは妙に寂しい光景であったが、彼女は感慨の声を上げてくれる。
「わぁ、何だか素敵」
「こんな質素なテーブルに喜んでもらって嬉しいよ」
「時にはシンプルなテーブルの飾りも必要。それがコーヒーとバニラアイスだなんていい事じゃない。広いステージの上のバレエダンサーみたい。どんな踊りを見せてくれるのか楽しみ」
「優雅に回転は出来ずとも、爪先立ちくらいは上手にやってくれるはずだが」
私がコーヒーカップを持ち上げ香りを楽しむと、彼女も私を真似て香りに顔を近づけた。
目には見えない香りに浸り、穏やかに目をつむる彼女の表情は妖艶にさえ見えた。
「どうだい?」
彼女は香りの中から眼球だけ上に向け私を見る。
「私が普段飲んでいるコーヒーとは全然違うわ。甘く上品な香り。それでいて自信に満ちている。早く飲んでって私を誘っているみたい」
恐らく上等なコーヒーを知らない彼女にしては優秀な答えだった。
「誘われるがまま飲んでみたらいい」
「ええ」
彼女はコーヒーカップに口をつけ、まだ熱いコーヒーを口内に送り届けた。熱に一度顔をしかめはしたが、彼女はコーヒーを口に含み、一遊びの味わいを終え喉に通した。
「美味しいわ。苦みと酸味が調和している。上手くは言えないけれど学校で一番優秀な生徒って感じ。勉強もスポーツも恋愛もバランスよくこなしている子みたい」
私の反応を伺う彼女に、ゆっくりとうなずいてやる。
「言い得て妙だな。君の表現はつたない所もあるが、満点に近い点数を与えることを私は躊躇しないよ。それだけ君はこのコーヒーの優れた点を見抜いている」
「本当」
春の陽気のように笑顔を見せた彼女からは妖艶さは消えたが、年相応の女性らしい花の様な空気もまた晴れやかに私の心をくすぐった。
「これはコーヒーの王様とも言われていて、君が言った甘み・コク・酸味・苦みを全て高いレベルで兼ね備えている万能選手なんだ。特にこの店では大粒の豆を使っているため、高品質・高水準な味わいで私達を楽しませてくれる」
「完璧な彫刻作品のようね。ちょっと安っぽい表現だったかもしれないけど」
「安っぽくなんかないよ、その通りだ。これほど均整の取れたコーヒーを私は知らない」
出勤前の人間が時計を気にするように、彼女はテーブルに置かれたバニラアイスを見た。
「それも食べていいんだよ」
「でも私の周りでも怒る人いるよ。コーヒーと甘いものを合わせるなんて邪道だって」
私は笑う。きっと彼女は私がコーヒー好きなのを気にして、世の評論家たちの述べるコーヒーの作法から外れる動きをすることをためらったのだろう。私のことなど気にする必要は全く無いのに。
「いいんだよ。無理に正しい飲み食いをする必要はない。人には人それぞれの楽しみ方がある。形ばかり気にしていたら、せっかくの豊かな時間が遠のいてしまう。さぁ、どうぞ」
彼女の顔に幼げな笑みが一つ浮かぶ。
「本当のお爺ちゃんみたいね」
「そうではないよ。私は結婚すらしたことが無いんだ」
「理屈屋さん」
「老いることに比例して理屈の数も増えていくのさ」
「また理屈」
スプーンですくったバニラアイスを食べ、彼女は再びコーヒーを飲んだ。
左手にスプーン、右手にコーヒーカップを持つという不格好さ。飾らぬままの美しさが私の前にあった。
「本当に美味しい。こんなにシンプルな組み合わせなのに…うん、出会えた喜びと幸せを感じさせてくれる。不思議ね、テーブルの上は物寂しいくらい質素なのに、フルコースの料理のように私を楽しませてくれる。私って貧乏舌なのかな」
「コーヒーとバニラアイスで、フルコース並みの喜びを感じられる事。それも一つの才能だよ」
「優しいのね、タンギーお爺ちゃん」
私には彼女が輝いたように見えた。深く儚い輝き。
「私を知っているのかい?」
「何日も扉を叩かれている間は、あなたのことは迷惑な人との認識しかなかった。でもこうして顔を見ながら話していると分かってきたの。あなたの背景が教えてくれたのかしら」
彼女の言葉に私は振り向いたが、そこには空席のテーブルと椅子があるだけだった。
「何も見えないが」
「きっと自分の背景はその目で見ることが出来ないのよ。振り返れば背景はそのままあなたの背中に移動する。永遠に続く追いかけっこね」
「私の背景には何が見えているのか教えてもらいたいな」
「私にはあなたのような知識はないから上手く伝えられないとは思うけれど、それでもいいなら見たままを伝えてあげる。今日のお礼よ」
「知識が無ければ的確に表現できない物が、私の背景に映っているのか。尚更興味がわいてきた」
彼女はワードパズルに挑むような目で私を、いや私の背景を見る。
「絵画ね」
「絵画?」
「ええ、大きな緩さを持ちながらそれでいて繊細。そして明確な線。それらが私は見たことのない絵の具で描かれている」
「情報が少ないな。まるで実態がつかめない。雲にソースをかけて食卓に出されたみたいだ。
皿の上に広がるのはこぼれ落ちたソースだけ」
「だから言ったでしょう。私には美術的な知識はないの」
私はテーブルの上のコーヒーを一口飲む。先ほどよりも少し強い酸味が顔を覗かせていた。
「具体的に説明してほしいな。それは一体どんな絵画なんだい。何がどう描かれている」
彼女は一瞬迷った表情を見せたが、そこに佇むことなく口を開く。
「見たことのない優雅な服を着て、強くメイクをした女性の絵画が3枚はあるわね。それに花の絵にピンク色の葉を咲かせた木々。後は雨が降る橋の上を変な帽子をかぶって歩く人々の絵画。それがハッキリと大胆に描かれているわ。そしてどの絵も影を持っていない。異文化の絵画みたいだけれど、どこか私達の心に触れる美しさがあるわ」
彼女の言葉に私は手を叩く。隣の席に座る小奇麗な女性客二人がいぶかしげな視線を私に向けたが、今の私にとってそれは些細な問題にも値しないものだった。
「わかったぞ。その絵画の女性たちは美しい髪飾りを付けているだろう」
「どうしてわかったの?確かに髪飾りを付けているわ。でもこんなに派手な髪飾りでは、私は外を歩けないわね」
「私の店は画材や美術品を扱っているんだ。そして客もそれを使ったり、興味を示す者たちばかり。そんな店の店主をしていれば美術品にも詳しくなるさ。私自身、美術品は大好きだしね」
肘をつき指を重ねた手の甲の上に彼女は顎を乗せ、私を見る。
「答えを教えて。絵画を見ている私が、見えていないあなたにこんな質問するのもおかしな話だけど、あなたの後ろに映る絵画の正体が知りたいの」
「まだ確信のツタを掴んだだけで私の胸に引き寄せたわけではないが、君の知的好奇心のために答えよう。きっとこれは浮世絵だよ」
見えない背景を指さす私に彼女は聞く。
「浮世絵?聞いたことが無いわ」
「それはそうだろう。私達が浮世絵に触れあえる機会は極めて少ないからね。浮世絵は日本という国の絵画で、その作成法を知った時私は驚いた。なんと浮世絵とは絵の具を使いキャンパスに描いたものではないんだ」
「描かなければ絵にはならないわ。息を吸わなければ心臓だって止まってしまう」
知を求める人間に、その答えを教えられる喜びは私の胸を高ぶらせる。
「そう思うだろう。だが違うんだよ。描かなくとも絵画は作成できるんだ。まず下絵を書く、そして下絵の通りに版木を彫り、彫った版木に鉱物や植物から採取した天然顔料を塗り紙に擦る。それが浮世絵さ。私の画材店によく来るゴッホという青年が、大層その浮世絵を好んでいてね、浮世絵の収集に必死になっているんだ。彼は必ず大成すると私は信じているよ」
私の話を聞き彼女は笑う。
「何か可笑しかったかな?」
「ごめんね、難しい話なのに随分楽しそうに話すから何だかおかしくて。それに…」
「それになんだい」
「あなたの背景の浮世絵がまるで動き出すかのように生き生きと見えて。不思議ね、あなたの背景に何故浮世絵の絵画があるのか、そしてその浮世絵の背景があってこそのあなたにも思えてくる」
「わからないな。わからないけれど、ありがたいことだね。出来ることならいつまでも君に見えている背景を背負っていきたいよ」
「いつまでもずっと、浮世絵と一緒に。それがあなたらしいわ、タンギーお爺ちゃん」
「違うよ、タンギー爺さんだ」
私達は視線を結び笑い合った。はたから見れば意味不明な話で笑う奇妙な光景に映ったであろうが、私たちはそれで構わなかった。楽しい時、笑う以外には何が出来るのであろうか。
 空になったコーヒーカップと小皿が二つずつ並ぶテーブルで、彼女は大きく息を吐いた。
「はぁ~、こんなに美味しいコーヒーとアイスを食べて、こんなに楽しいお爺ちゃんと会話できるなんて、今日は楽しかったなぁ」
「たまには外に出てみて良かっただろう」
窓の外に泳がせていた視線を、彼女は私に戻した。
「あなたがいてくれたからよ。ありがとうタンギーさん」
「嬉しい言葉だけど私は関係ないよ。閉じこもっていた部屋から出たら、楽しいのは当然のことさ。自分の足で歩く外の世界にはいつだって春の空気がある。例えそれが極寒の冬であろうとね」
「冬は冬よ。極寒の世界に春があるなんて、ゴムボールをビー玉と言い張るようなもの」
私は顔の前で立てた人差し指を振る。おいぼれの勝ち誇った顔が彼女にはどう映っただろう。
「それは君が、冬を冬と決め込んでいるからだよ。探せば冷たい冬の中にだって必ず春は見つかる。足りないものがあれば探せばいいんだ。そうすればきっとそれは君の手にいつか握られる」
少し考え微笑みを見せる彼女。
「そっか、冬だと思っていればいつでも冬だし、春だと思えばコートが手離せない季節でも、今日のように楽しめるのかもね。気持ちの持ちようではいつだって春を歩けるのね」
私も意味もなくコーヒーカップの横で昼寝をしていたスプーンを持ち上げる。
「そうさ、我々はいつだって春を歩けるんだ。逆に辛い気持ちや悲しい気持ちをいつまでも引きずっていては年中が冬になってしまう。そんな時は自分で春を探して呼び込んでやるんだ。そして冬の中にいる人がいれば君の春を分けてやればいい。誰かに手を差し伸べること、それは人間が出来る最も正しい行動だと思うよ」
「あなたが私にしてくれたように」
意気込んで話をしていたことが急に恥ずかしくなり、私は笑いながら足元を見る。
「そろそろ出ようか」
「そうね、いい時間ね」
外はまだ明るいのに急に一日の終わりが来たような気がして、寂しさに揺れながら席を立つ。そんな私に彼女が一言。
「ちょっと待って」
彼女は慌てるように先ほど購入した花を包んでいる紙を開き、瑠璃色の花を一輪私に差し出した。
「これ持って行って」
私は老いた脳を稼働させたが、彼女の行動の意味することは見当もつかなかった。
「どういうことかな?」
渡された花を両手で摘まむ私を彼女は笑って見ている。
「似合ってるわよ、お爺ちゃん」
「否定はしないよ。私に最も近い色の花だ。だがこの花を持たされた理由がわからないんだ」
「簡単な話よ。その花が枯れる前にもう一度私の部屋の扉を叩いて」
手に持たれた花から漂う香りが、私の心を瑠璃色に染めた。
「いいのかな。また、訪ねて行っても?」
「あなたとなら、いつでも春の道を歩けそうだから」
「そうか。それならまた春を歩こう」
「待っているわ。また扉が叩かれるのを」
私はカフェの出口を手で示す。
「さぁ、帰ろう」
歩き始めた彼女に追い抜かされないようにし、私はカフェの扉を開けてやる。
 先ほどよりも強くなった春の日差しに私は目を細めたが、彼女は平気な様子で道を歩いて行く。出来立てのパンケーキのような陽気さで、メープルシロップのように甘い春の空気を全身にまとい歩く彼女。その背中に私は一つの疑問を浮かべる。
「私達は同じ道を通ってこのカフェに来たはずだ」
「そうね」
「ならば必然的に帰り道も同じとなるはずでは」
「そうよ」
「では何故あの店で花を渡したのかな。君の家の前で渡してくれればそれでよかったのに。おかげで私は人の注目を浴びながら街を歩くことになった。花一輪を持ち歩く老人、明らかに異質だ」
彼女は振り返った。その顔には強い笑み、この街の春のような表情。
「お返しよ」
「何の?」
「何日も朝からやかましく扉を叩いたことのお返し。次はもっと優しく叩いてね」
彼女はあんなに嫌がっていたメインストリートへ向かい歩を進めて行く。随分と軽快な足取りを私は追う。
「おい、待ってくれ」
明るい春の街に私の声が響いた。
                             芝本丈

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